栓抜きをビールの口にかける。
少し力を入れると、てこの原理で蓋が取れた。
力の勢いのまま、蓋はころりと机の上に転がっていく。
ビールをグラスにつごうとしたところで、彼女の様子に気がつく。
気分でも悪いのだろうか、と思って聞くと、彼女は不機嫌に答えた。
「角度が」
は? と思わず聞き返す。
「角度が気に入らない」
今さっき自分が取った蓋が、丁度彼女の目の前に座っていた。
てこの原理で少しだけ曲がった王冠に指先を伸ばし、彼女はそれをつついていた。
道化師
窓の外、下には家々が連なっているのが見え、上には空が見えている。
もしかするとここはもう空なのかもしれない。
そんなマンションの一室で、佐野香澄はショートケーキを頬張る。
甘い。
しかし口を動かすたびに、まるで否定されているかのような味がする。
香澄は味をしっかりと感じながら口を動かす。
なんというのだろう、この味。
高級すぎるのかもしれない。
ちらと横目で、ショートケーキの入っていた箱を見る。
真っ白な箱の片隅に金色の上品な文字と家をかたどった模様。
店の名前は英字の筆記体であるから、すぐには読めない。
しかし高そうな店であることはなんとなく雰囲気から分かる。
「どう? うまい?」
「んー、うん、なんかおいしいような気がする」
なんだそれ、と笑う夫。
それはつまり、高級そうだからおいしいに違いない、という先入観による判定だ。
なんの前振りもなく食べたとして、はたしておいしいと感じることはできただろうか。
案外昨今のコンビニエンスストアで売っているショートケーキの方がおいしいかもしれない。
しかしあれは、なんたることか2つずつしか売っていないので1つしかいらないときに買えないのだ。
「あの、高いアイスの現象のこと」
高いアイスだと知って食べるからおいしい。
知らなければあのアイスだって、ちょっと癖が強くてあまり食べたい味ではない。
という現象。先入観?
「ふーん。……あ、そうそう。俺、この後また出社だから」
「そうなの?」
夫の言葉に、香澄は慌てて目を見張る。
20代半ばというのは働き盛りなのだろうか。
つい30分ほど前に出張先から帰ってきたばかりであるのに、また出社とは。
家には休憩時間だから寄ったということか。
香澄はショートケーキを消化しながら考える。
おみやげのケーキを持って新婚家庭に帰り、疲労を回復してからまた出社。
ありだな。
「あ、でも多分今日は早く帰れると思う。ちょっと出張前のやりかけの仕事と出張の報告程度だから」
少し安心しながら、口の中が生クリームでいっぱいなので喉だけで声を出して返事をする。
噛めば噛むほど生クリームが増えていくような気がする。
これが高級なケーキなのだろうか。
香澄が悩んでいると、じゃあ行ってくる、と夫。
生クリームを飲み込んで、笑顔でいってらっしゃいと返す。
ドアの向こうに消える背中、玄関先で物音、そして玄関の閉まる音。
ショートケーキの上に乗っている苺にフォークを入れ、口に入れる。
甘酸っぱい。
この微妙なすっぱさは生クリームと合っている。
このバランスを狙っているのだとしたら、やはり高級有名店のショートケーキだ。
「ん? 有名高級店? 高級有名店……。有名、高級……」
テレビの中の笑い声が大きくなる。
何かと思ってテレビに目をやるが、笑うほどおかしい何かは既に終わってしまったようだ。
今目を向けた香澄には笑う彼らしか見えず、何が面白いのかは分からない。
フォークをくわえたままリモコンのボタンを指先で押す。
嫁と姑ドラマ、時代劇、不倫ドラマ、古い刑事もののドラマ、囲碁の中継。
めぼしい番組を見つけることができず、しまいには電源ボタンをついて消した。
騒音が止み、辺りは途端に静かになる。
どこか遠く、とても遠く、遠く遠くの向こうから車の走る音が聞こえるような気がする。
フォークでケーキを切り分けるとフォークが皿とぶつかり合って、甲高い音が大きな音に聞こえる。
とても、静かだ。
一口サイズに切り分けたショートケーキを口に運ぶ。
生クリームとスポンジが口の中で崩れていく音が聞こえる。
それほど静かだったから、気付くことができた。
少し離れた場所からかたん、と音がしたことに。
ん? 風?
窓を閉め忘れたのか、と危惧し、もしかして鼠か、と眉根を寄せる。
泥棒だったりして。
冗談半分に心の中で言う。
泥棒?
その瞬間、壁の向こうに誰かの息遣いを聞いた気がした。
誰かいる。
もちろん聞こえるはずのない音で、実際に耳が感じ取ったわけではないのだろう。
つまりいわゆる第六感というもので、気配を感じたということなのだ。
香澄はすーっと体が冷えていくのを感じた。
そんな馬鹿な。
この界隈で最近泥棒の話を聞いたことなんてない。
もちろん、だからといって泥棒がいない可能性なんてない。
いや、でも何故、わたしの家が……!
どうやら子供部屋予定の窓から入ったらしく、小さく窓の閉まる音が聞こえた。
さらに、何を言っているかはわからないが、確かに人の声が聞こえた。
二人の男が侵入してきているようだった。
逃げなければ。
フォークを机の上に置こうとして、布巾の上に置く。
音をさせてはいけない。恐らく向こうは人がいることに気がついていないのだから。
心を落ち着かせながら香澄は、椅子をきしませずに立ち上がり、どちらへ行くべきか、と考えた。
玄関から廊下、扉をこえてリビング、その向かって右に子供部屋予定、左にダイニングキッチン、その奥に夫婦寝室というのがこのマンションの一室の間取りだ。
現在地はリビング。
本当は外に逃げられればよいのだろうが、玄関側の扉は閉まっており、開ければ気がつかれてしまう。
となるとあいている扉、ダイニングキッチンへと向かうしかない。
鼓動が早いのを、どうにか手で押さえつける。
音が鳴りそうなスリッパを脱いで、靴下でそっと足を動かす。
ダイニングへとまたいですぐに、背後、子供部屋からリビングへの扉が開いた。
焦りながらも、横へ素早く身を滑らせて隠れる。
妙に冷えた頭。
胸元の早い吐息。
背後の荒い足音。
背後の知らぬ話し声。
「金目のもんってドコにあんだ?」
「知らねえ。とりあえず、お前、その辺の引き出し見てみろよ」
まだ若い男性たちの声のようだった。
どうやら気がつかれてはいないようだ、と考えながら、香澄はダイニングキッチンを見回す。
ふとここで、音を立てて気がつかれてもいいから外に逃げるべきだった、と思い当たる。
誰かが犯行に気づいたことがわかれば向こうも逃げ出すだろうし、外に出たほうが他者に連絡が取れる。
後悔しながら、早鐘になった胸元を手で押さえつける。
どうしよう。
「なあ、これ通帳?」
「いーじゃんいーじゃん。印鑑も探さなきゃならねえけどな」
どうしよう。
「あ、そっか。印鑑がいんのか」
どうしよう。
「お前そんなことも知らねーの? ばかじゃん」
どうしよう。
「うっせ」
どうしよう。
そして、下品な笑い声。
姿は見えないが、どうやらいわゆる『今時の若者』の代表格のような男達のようだった。
もちろん、今時の若者全てが茶髪でピアスあけて敬語が使えなくて反抗的で、というわけではないと香澄もわかっている。
しかし、『今時の若者』というくくりがあるのは事実なのだ。
「あ、なあ。あっちも見てみようぜ」
「あっちー?」
やばい、と心臓がはねあがる。
恐らくこっちのことだ。
見つかってしまう!
香澄は素早く周りを見渡す。
クローゼットの中に、いやそれでは戸を開け閉めする音が聞こえてしまう。
カーテンの向こう側、足が見えてしまう。
キッチンの向こう側、見つかりやすい場所だ。
ああ、どうすれば!
「キッチンみてえだぜ?」
声が近づく。
どうしよう。
香澄は息を止めて、心を決めた。
もう、仕方ないっ!
呼吸が一旦停止し、鼓動だけが鳴り響く。
男の足音が部屋へ入る。
見つかりませんように。
香澄は、ドキドキとうるさい鼓動で気がつかれやしないかと心配になる。
どうか、見つかりませんように。
「なあ、向こう寝室じゃね?」
「寝室ー? なんかありそうな響きじゃん」
そのまま、寝室へ行ってしまえ。
「だろ?」
二人分の足音が、すぐ近くを通り過ぎていく。
口元に手を当てたまま、見つからないように、とただ願う。
かちゃり、と寝室のドアが開く音。
そして、閉まる音。
緊張に染まった息を吐き出しながら、ついその場に倒れこみそうになるのをこらえる。
助かった。
とりあえず、ではあるが、見つからなかった。
香澄は寝室の扉をうかがう。
わざわざ閉める必要はないと思うのだが、おそらくどちらかの癖になっているのだろう。
しかし、今が逃げ出すチャンスだ。
香澄は食器棚の裏側からそっと抜ける。
寝室の中で動く音が聞こえ、少しの間は出てきそうにはなかった。
ありがとうね、と小さく食器棚に手をかける。
少し前、この棚の上にはかりを置いていたのだが、それが丁度裏側に落ちてしまった。
それを取り出すために夫に棚を少し前へ動かしてもらっていた。
戻さなくてよかった。そのおかげで、隠れることができた。
「けど、ほこりついたな」
小さく苦笑いをしてから、リビングへと戻る。
気がつかれてもいいから外に出て、警察を呼ぼう。
鼓動が荒いが、安堵感が段々と体を駆け巡っていく。
リビングを見回してみても、あまり荒らされていないようだった。
引き出し等を開け閉めした程度なのだろう。
食べかけのケーキが気になるが、食べている暇なんてない。
そういえば彼らはこのケーキに目をとめなかったのだろうか。
見ていたら、人がいることは想像できるのだが。
素早く玄関側のドアに手をかける。
早く、警察を。
そういえば今ポケットに携帯電話を持っているではないか!
怖かったけれど、貴重な体験だったな。
これで終わり、と安堵の笑みを漏らしながらドアを押す。
そしてその瞬間、子供部屋と通じる扉の方で、人の気配を感じた。
そんな。
香澄が振り向くのと、男が香澄の襟首をつかんでナイフをかざすのは、ほぼ同時だった。
そんな馬鹿な。
「動くなよ」
3人目がいたなんて。
香澄は目の前にきらめくナイフを見て、次にナイフの向こう側を見る。
茶色の髪が上へ上へと自己主張するように立っている。
眉毛がなにやらすごく薄く、細く。否、ないと言うべきだ。
黄色のタンクトップに青のジーンズ。
サングラスの向こうの瞳で強く射抜かれる。
一瞬だけ彼と目が合うと、香澄は襟首を強く引かれ、思わず小さく叫び声をあげた。
彼の良心なのか、倒れた先はソファだった。
何がいけなかった?
香澄は自問する。そして、後悔。
何故最初に外に逃げ出さなかったのだろう!
「おいっ!」
男は寝室の方へと声をあげる。
対する香澄はただ、ナイフを見つめていた。
あんなにも銀色で、あんなにも輝いていて、あんなにも異質。
呼吸が荒くなっていく。
呼吸が呼吸でなくなっていく。
かちゃり、と寝室のドアが開いた。
どたどたと足音をさせながらダイニングを越え、2人の男性が出てくる。
1人は、紺色の野球帽と、尻がすっぽり隠れるほどもある丈の青のシャツと、だぼっとしたベージュのズボン。
もう1人は臙脂の野球帽と、今度は対照的に短い赤のシャツ、黒のズボン。
「お前らなア、ちゃんと人がいるか確認しとけってんだよ」
「わっり」
「つーかいると思ってなかったし」
下品に笑う彼らの手には、香澄の財布とタンス貯金の封筒。
全てで20万円くらいはあるだろう。
盗られた。
なあ、これ見つけたぜ、と笑う青と赤の彼。
恐怖でないものが少しだけ香澄の中で自己主張を始める。
香澄に背を向けた黄色の男が、見つけても警察に通報されたら終わりなんだぞ、とイラついてみせる。
誠意なく謝りながら、向こうに紐があった、と青の彼は踵を返す。
赤の彼は、このあたりにガムテープが、と言い出す。
どうやら香澄を拘束するつもりらしい。
逃げ出せるだろうか。
呼吸が荒い。
息が正しく入ってきているのかすら分からない。
これは恐怖か、緊張か、それとも、怒り?
黄色の彼と、ふと目が合う。
香澄は声にならない叫び声をあげる。
やめて。
何をやめて欲しいのかはわからない。
泥棒をやめて欲しいのか、拘束をやめて欲しいのか、殺すのをやめて欲しいのか。
ただ、やめて、と香澄は声にできないまま思った。
青と赤の二人が帰ってきて、3人がかりで香澄を拘束する。
後ろで手首をしばられ、足首も縛られ、口もふさがれた。
痛みは少ない。
拘束されたということは、殺される心配は少ないだろうか。
呼吸が荒い、鼓動が早い。
握られた拳と、縛られた布紐の下で汗が流れ出す。
逃げ出したい、逃げ出したい。
やめて。
「変な真似すんなよ」
黄色の彼がナイフをかざす。
やめて。
叫びは声にならない。
やめて。
「そーそー、金目のもんだけもらってくからな」
「命だけは助けてやらあ、ってな」
下品に笑う3人の男達。
このまま大人しくしていれば命は助かるだろう。
だがきっと、少年達は逃げ出して、香澄の家から奪った金で遊びまわるのだろう。
ふと、恐怖と焦りの中に、怒りがはっきりと目覚めた。
一瞬だけ目の前が赤くなる。
その赤は全ての感情を怒りに塗り替えていく。
一息つくと、怒りは消えないが落ち着きが戻ってきて、香澄は何故か勝利を確信した。
まずは、この拘束をどうにかしなければ。
寝室やダイニングに消えた3人組が戻ってくる様子はない。
ソファに転がされた香澄は手を少しだけ動かす。
すると、爪が何かに当たった。
「それでどうにか手の紐を切って、丁度ポケットに携帯電話持ってたからさ、しばられた状態に見せながら後ろ手で夫にメールしたの」
「へえ、旦那さん、ちゃんと信じてくれたんだ」
「うん、後で聞くとね、変換がすごいおかしかったらしいよ」
くすくす、と喫茶店の片隅で小さな笑い声が上がる。
「アンタが泥棒に殺されなくてよかったよ、ホント」
「お、言ってくれるじゃん」
「でも若い子で初犯だったんだって? 遊ぶ金が欲しかったー、って言ってるとか?」
「そうそう。旦那がすぐに警察に連絡して、自分も飛んで帰ってきたもんだからあっさり捕まっちゃったって」
「被害もない、ってこと?」
「そうだね、ガムテープが10cmくらいが実質的被害かな。あと、ケーキ」
「ケーキ?」
「そう、旦那がケーキ買ってきてくれたのが途中までしか食べてなくてさ。途中まで食べたやつを後から食べるのってなんだか変な気分にならない?」
「あ、わかるわかる。なんか違うんだよね。なんでこれ食べてるんだろう、って気になるよね」
「そうそう。でも、また買ってきてくれるって」
「くうー、新婚は羨ましいなあ」
「アンタんとこも新婚じゃん。……ねえ、ごめん、ショートケーキ食べたくなってきた。頼んでいい?」
「まあそんくらいならいいよ。……すみません、ショートケーキ1つと、野いちごとブルーベリーのタルト1つお願いします」
「野いちごとブルーベリーのタルト?」
「え、なんかおいしそうじゃん」
「だめだめ。ケーキはやっぱりショートケーキが一番おいしいんだから」
「はいはい。でさ、……ねえ、そんとき、怖くなかったの?」
「うーん……。怖かったけど相手も若かったからさ、悔しい! 負けたくない! って気持ちが強かったかも」
「あ、普通に顔見えたんだっけ。うーん、稚拙な犯人だねえ」
「高校生だからね」
「そんでさ、気になってることあるんだけどさ、聞いてもいい?」
「ん? 何?」
「どうにか手の紐を切って、って言ったよね?」
「……それが、どうかしたの?」
「切って、ってことはほどいたわけではないでしょ?」
「そう言ったっけ?」
「自分の言葉くらい覚えといてよ。……で、つまり、香澄は紐を切ったの。じゃあ、どうやって?」
「どうやったと思う?」
「それが聞きたいんだって。見た限りだと爪はちゃんと切ってあるから無理だろうし」
「ああ、ちょうどその前の日に切ったんだよね」
「引きちぎっても切った、って言うだろうけれど、雑誌を縛る用の紐はそんな簡単には切れない」
「切れたら困るもんねえ」
「ね、どうやって切ったの?」
お待たせいたしました、とウェイトレスがケーキを2つ置いた。
香澄の前にタルト、友人の前にショートケーキだった。
小さく笑ってから入れ替える。
「少し前の日にリビングで飲んでたんだよね。でさ、ソファって、隙間あるじゃん? そういうこと」
「え? 何? え、え? どういうことよ」
香澄は小さく笑った。
「昔ね、わたしの弟がね、自慢してたの。『廃品回収の時、どうしても欲しい本を見つけてさ、でも固く縛ってあるじゃん? 取り出せないじゃん。でも俺、どうしても欲しかったんだ。だからさ、丁度持ってた自転車の鍵。あれってぎざぎざしてるじゃん? あれをのこぎりみたいにして紐を切ったんだよ。すごいのな、ちゃんと切れたよ。俺の発想すごいだろ? で、持ち帰ってきた。姉ちゃんも見る?』……すごいよね。鍵のあのぎざぎざで、紐が切れちゃうんだよ」
「鍵を使ったの?」
「違う違う」
「じゃあ、何使ったの?」
香澄はショートケーキを口に入れてから、小さく笑った。
「秘密」
競作小説企画Crown様 第一回テーマ「王冠」 投稿。微修正。
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