無音
それは無音
それは雨音
雨音
無音
幻覚
雨の音はサーッという音だ。
不思議な音だといつも思う。
自然の音で、不自然な音。
それがどこか遠くから聞こえてくる。
もちろん本当はそんなに遠くで鳴っているわけではない。
窓が、音を遠くに見せているのだ。
ユカリは一度だけ母親に会ったことがある。
最初にユカリがそのことを話してみたのは、父だった。
だがきょとんとしたあと、すぐに大きな口を開けて笑った。
そんなわけがないだろう、と。
それもそうだ。何故なら母はユカリを出産した時にそのまま死んでしまったのだから。
だが、ユカリは確かに母親に会ったのだ。それも、つい最近のこと。
母は死んでいる。だけど、この前会ったんだよ。
そう言うと、皆笑った。
棚の上に飾ってある写真、聡明で美しい女性がユカリの母だ。
その写真だと、母はしっかりした雰囲気をまとっているのだが、実際は違う。
もう少し、どこか儚くて、優しい、柔らかい雰囲気の女性だ。
父にそう言うと、よく知ってるね、ああ、僕が話したことあったっけ、と笑われた。
でもユカリは確かにあの日母に出会い、その雰囲気を知ったのだ。
サーッ、という音。
そう、あの日も雨が降っていた。
その月曜日、父は仕事でユカリは休日だった。
日曜日に社会見学があり、その振り替え休日だったのだ。
皆の平日、ユカリの休日。
外は平日の空気で満ちていて、休日のユカリを否定しているようだった。
もしかするとユカリを否定しているのは、雨なのかもしれない。
リビングの床に座り込んで、窓の外を見ていた。
耳に届く、ザーッ、という音はテレビの砂嵐。
静かで不気味な雨音よりも、無骨で荒々しい音。
雨の音と比べるためにつけてみたのだが、全く違うものだった。
ユカリは立ち上がってテレビの電源を切った。荒い音が止み、静かな音がただ鳴り続ける。
明りをつけていない部屋は暗かった。
テレビのリモコンを握ったまま外をぼんやりと眺める。
何もかも混ぜてしまったような不規則な砂嵐の映像。
ただ真っ直ぐに線をひいて、ひいてひいてひいて世界を埋め尽くしてしまう雨。
リモコンを机の上においてからガラス戸に触れた。
ひやりとつめたいおんどがゆびさきからたいないにはいってくる。
ユカリは鍵を開けてベランダに出た。
置いてあったサンダルは雨で濡れている。
仕方がないのでユカリは素足でコンクリートの上に立つ。
ひやりとつめたいおんどがあしのうらからたいないをとおりぬける。
家に沿うようにして畳を2枚分取り付けたほどの広さ。
ふと突然、上から水が落ちてきた。
ひやりとつめたいおんどがほおからたいないをおかしていく。
物干し竿についていた水滴が落下したらしい。
頬をぬぐってから、ベランダの隅に目を当てる。
赤茶色の植木鉢の中に、緑色の饅頭みたいなものが座っている。
よもぎまんじゅうのようでもあるし、言っては悪いが赤ちゃんのうんちのようでもある。
一体、誰がこれをサボテンだと思うだろうか。
母はサボテンが好きだったらしい。
父がそれを受け継ぎ、少しずつ枯らしながらも、とりあえずこれだけ生き残っている。
なんだっただろうか。
翠冠玉、という名前だったように思う。
ふと気がつくと、雨の音が止んでいた。
あれ、止んだのかな。
そう思いながらユカリが空を見上げると、曇天が視界すべてを覆いつくしていた。
この角度なら屋根が見えるはずなのに。首と視線を正面へ戻して辺りを見回す。
何もない。
足元を見ると、そこに翠冠玉だけがあった。
ユカリはもう一度周りを見回す。
どく、と心臓が存在を主張する。
曇天がこの世界のすべてを表していた。
足元も空も周りも曇天で、平衡感覚が曖昧になってくる。
白と灰色の濃淡、重々しい色。そして何故か青緑がかっている、雲。
曇天。
どく、と心臓が破裂するような勢いでユカリを内側から刺激する。
なんだろう、この感覚。
これは、恐怖?
ユカリは、脳が動けという指令を出してくれないことに気がつく。
呼吸が早くなる。
鼓動が早くなる。
冷たい瓶のような心に、恐怖という熱いマグマが注がれていく。
ふと窓に触れたように。
ひやりとつめたいおんどがゆびさきからユカリをこおらしていく。
ベランダに立った時のように。
ひやりとつめたいおんどがあしのうらからユカリをとめていく。
物干し竿の水滴が落ちてきたように。
ひやりとつめたいおんどがほほからユカリをつめたくしていく。
足元には翠冠玉。
周りはただ曇天で。
浅い息と深い鼓動。
ひやりとつめたいおんどがユカリをあまつぶにしていく。
ひやりとつめたいおんどひやりとつめたいおんどひやりとつめたいおんど。
ひやりとつめたいおんどひやりとつめたいユカリひやりとつめたいユカリ。
動けないユカリの腕に、そっと暖かいものが触れた。
寒い冬に突然風呂に入った時のように、ユカリは首の後ろの毛が逆立ったのを感じた。
あたたかい。
その腕から、じわりとあたたかいおんどがユカリをとかしていった。
その温度にユカリは恍惚感を覚える。
じわりじわり。曇天が晴れていく、晴れていく。
曇天の向こうの曇天。
ここは入れ子細工の真ん中。
マトリョーシカの一番小さな人形のその中。
すべての曇天を払いのけたら、緑がかった青空が顔を出すのだろう。
白い雲だけ残して、虹という土産を置いて。
まだ晴れない。曇天が消えていく。
腕に触れていたあたたかいおんどがふと離れた。
恍惚が、急に寂しさに変わっていく。
行かないでとその温度をつかみたいのに、脳はまだ動けという指令を出してくれない。
その代わりか、映像が頭の中に流れ込んできた。
黒髪の、一見聡明そうな女性。どこか儚くて、優しく、すぐに壊れてしまいそうな女性。
寂しさを感じながら、しかし、懐かしさと幸福がユカリの中に流れ込んでいく。
あたたかいおんど。
ユカリの母。
そして気がついたときには、ユカリは床の上に座りこんでいた。
ぼんやりと思い出しながら、ユカリはあのときと同じように床に座った。
アリスが穴に落ちた後のようなかわいらしいポーズ。
緊張のせいか、ただ疲れきったように汗ばんだ体。
今でも鮮明に思い出せる。
あのつめたさ。あのあたたかさ。帰ってきたときのあつさ。
帰って床に座り込んだまま、窓の外に目を向けた。
体の熱さが冷えていくのを心地よく思いながら、そう、窓の外に目を向けたのだ。
晴れていると思った。
ユカリはあのときと同じように窓の外を見た。
一人きり。
暗い部屋。
冷たい床。
同じ景色。
サーッと途切れぬ雨音。
雨が降っている。
競作小説企画Crown様 第二回テーマ「雨の日の過ごし方」 投稿
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