この世に不思議なことなど何一つないのだよ。


  それは不思議な


ひんやりと冷たい、重いそれに包まれている。
必死になってかきわけながら、どこか楽しさを感じている。
目の前の水色の向こうに、壁が見えたのがわかった。
息が苦しくなったが、残りは数秒もないと我慢し、息継ぎをやめてふたかきで壁にタッチした。

ぷはっ、と勢いよく顔を上げて、佐奈絵は空気を目一杯吸い込んだ。
ゴーグルを上げながら必死で息をし、たったいま触れた壁に背を預ける。
目の前に50mプールが広がっている。
水色の空間。

ふと、後ろから影が差した。
佐奈絵が振り返ると、丁度彼はかがんだところだった。
佐奈絵の入っている水泳部の顧問、小笠原智也だ。
「最後大丈夫だった?」
「ちょっと、ぎりぎりでした」
「まあその甲斐はあったね。自己ベスト更新。0,5も縮まってる」
れいてんさん?
ジャージを着込み、特にセットしたようにも見えない黒髪、にこりと笑う目。
手にはストップウォッチを持っており、ソレが表示しているのは確かに一浦佐奈絵の自己ベスト記録よりも0,54秒早い。
水泳の世界で0,1秒というものは大きい。
0,5秒ともなれば決定的な差がある。
「うっそー!」
「ほんとほんと、俺の計測技術をなめるなよ?」
佐奈絵は水の中で拳を握りしめる。
2週間後の地区大会に光が差してきた気がする。
笑顔をそのままに、佐奈絵は仰向けに水の上に転がった。
「そろそろ着替えないと、始業時間に間に合わないよ」
はーい、と水の上で手を上げる。
そのまま足をばたつかせてゆっくりと流れた。
背泳ぎは、不思議だ。
水の上にいるのに、目の前に広がるのは空だけ。
自分が水の上にいることすらわからなくなってくる。
更衣室に一番近いところまでそうやって泳いで、プールから上がった。
他の部員は先に上がってしまっているらしい。
佐奈絵は消毒されたプールの水を落とすため、他の部員のいるシャワーへ走った。
プールサイドは走るなっ、と小笠原が怒る声が聞こえた。



「あーっ、だめだ。プールに入ると眠くなる」
佐奈絵が自分の弁当箱を片付けていると、目の前の十賀みゆきは両手を宙に突き出した。
そのまま机の上に倒れこみ、まぶたを閉じた。
彼女は佐奈絵の親友に当たる人物で、いつも2人で昼食をとっている。
「4限にプールで、お弁当食べてぽかぽかなんだから眠くもなるよねえ」
だが佐奈絵はぱっちり目が覚めている。
みゆきは少しだけ頭を起こし、佐奈絵を恨めしそうに見つめた。
「佐奈絵はプール慣れてるからいいなあ。眠たいのに眠れない時って、すっごい辛いんだからね」
「あ、わかる。授業とかね、なんで我慢してるんだろう、って思う」
「眠たい時に寝るべきだよね。もちろん授業はしなきゃだめだけどさ、我慢する意味、ってのはない気がする」
「そうだよね。耐えるの辛いし。どうせ集中もできてないし」
みゆきは視線をそらし、窓の外に目を向ける。
「どうして、プールに入ると眠くなるんだろうね」
「そうだねえ」
「あ、あれかな」
そう言いながらみゆきは指先をくるくる回した。
「……どれ?」
「人が、海から来たから?」
佐奈絵もみゆきと同じように、窓の外を見た。
海が見えた。
「あ、そうだ、聞いて! 今日の朝練で記録伸びたんだよっ!」
「へえ、すごいじゃん」
とはいえ、みゆきは大してすごいとも思っていないようだった。
水泳部でないものには少し縮まっただけで何をそんなにも、としか思えないに違いない。
否、陸上部の短距離走走者等には理解できるかもしれない。
「がんばるよーっ、大会では優勝して、全国大会までっ!」
「さすがにそれは無理でしょ。いって県大会だな」
「現実的なこと言わないでよー」
佐奈絵が嘆くとみゆきが意地悪そうに笑った。
でも、と佐奈絵も思う。
確かに現実的に考えれば、もちろんそれはその通りなのだ。
もしかすると、地区大会すら突破できないかもしれない。
佐奈絵が沈んだのがわかったのだろう。
みゆきはそういえば、と話題を変えた。
「幸せになれるんだって」
「うん?」
そこでみゆきは声をひそめた。
「人魚見ると」
へえ、と佐奈絵は曖昧に頷き、視線を海に向ける。
海辺の町。
マーメイド。
人の体をもち、腰から下が魚だという伝説の生き物。
その肉を食べると不老不死になるとかいう伝説も聞いたことがある。
佐奈絵は先ほどの、記録が伸びたことを褒めたみゆきと同程度の気分ですごいねえ、と言った。
「お、その顔は信じてないな」
「そりゃまあ、高校生にもなって人魚って……」
「3年の青井先輩が見たんだって」
具体的な名前が出て、佐奈絵は少しだけ面食らった。
さらに、みゆきの表情が案外真剣なことにも気がついた。
「結構具体的な名前が上がってるんだって。でも、暗黙のルールみたいな感じで、そういうの聞いちゃいけないことになってるらしいよ」
だって。らしいよ。
典型的な、ただの噂じゃないか。
佐奈絵はすごいすごい、と心をこめずに言った。
その反応がみゆきには不満だったらしい。
唇を尖らせて眉間にしわを寄せた顔がずい、と近付いた。
「見たいと思わないの?」
「べっつにー?」
海を見ている。
佐奈絵は海を見ていた。
予鈴がなって、じゃあね、と言ってからみゆきが自分の席に戻っていく。
海を見ている。
きら。きら。
白色が水面に反射して青色がただ輝いているように見える。
ふと、その中に金色が見えた気がした。
ごみだろうか?
ああ、そうか。
「アレが、人魚ねえ」




「おーっと、大丈夫か、記録大分落ちたぞ」
「うえー、ほんとですかー」
自分では精一杯頑張ったつもりだったし、大分いい感じだと思っていたのもあり、佐奈絵は苦笑してみる。
ほれ、と差し出されたストップウォッチを見て。
絶句した。
「ちょ、ちょこれまじですか?」
「俺の計測技術をなめるな、って言っているだろう。まあ疑いたくなるのもわかるけど」
自己ベストよりも5秒以上遅い。
これでは地区大会突破どころか余裕のビリッケツだ。
佐奈絵は歯をかみ締めながら水の中にもぐった。
視界が青い。
誰かが泳いでいる。
誰かが立っている。
もちろんそれは水泳部の誰かなのだろうけれど、誰なのかなんてわからない。
誰か1人くらい、人魚が混じっているかもしれない。
ぷはっ、と顔を上げるとまだ小笠原がこちらを見ていた。
「他の人みなくていいんですか?」
「お前の記録が下がったからな、体調でも悪いのかと思って」
佐奈絵は少し考えるようにしてから、体調は大丈夫です、と言った。
いつもどおり、というよりはいつもよりいい感じだと思っていたのに。
「人魚も、見たのに」
「にんぎょ?」
もちろん、ただ単に一瞬別の色のきらめきが見え、それを勝手に人魚にした、というだけのことだが。
でも、それでも多少自分の励ましになると思っていた。
「知りません? みゆきに聞いたんですけど、最近人魚目撃情報があるんだそうです」
「へえ、この海で?」
「はい。それで、見た人は幸せになれるんだそうです」
小笠原が、きょとんとした。
え? と咄嗟に佐奈絵は呟いてしまう。
心の底から信じて驚いている? 馬鹿なことを言っていると驚いている?
小笠原がこちらを見ている。だが太陽がまぶしくて、佐奈絵から小笠原の顔は見えなかった。
「おかしな話もあるもんだな。それが本当に人魚なら、ありえないと思うんだけどな」
少し真剣で、少し呆れているような、それでも人魚の話に興味を持っているらしい口調だった。
太陽がまぶしい。佐奈絵は目の上に手のひらをおいて光を遮ろうとする。
「どうして、ですか?」
小笠原の表情がぼんやりと見えた。無表情に近い、少し怒ったようにも見える表情だった。
「人魚の話、って言ったら何を思い浮かべる?」
「え、ええと、人魚姫?」
「それ、最後人魚姫って消えちゃうだろう?」
愛する人を殺さなければ死んでしまうという状況で人魚は愛する人の死よりも自らの死を選んだ。
ラストの部分を要約すれば人魚姫、という話はこうなる。
「人魚の出る話、って普通人魚は幸せにはなれないんだ」
佐奈絵は、ドキ、としたのを感じた。
「人魚って、不吉の象徴なんだぜ?」
きら、と目の前に金色の輝きが見えた気がした。
真剣に聞き入った佐奈絵が面白かったのか、小笠原はからからと笑い、他の生徒のほうへ向かった。
佐奈絵はソレをぼんやりと目で追う。
男子生徒と話をしている。
人魚。
不吉の象徴。
佐奈絵は背中を水につけ、ぷかぷかと浮いた。
空を見上げる。
空が青い。雲が白い。日がまぶしい。
そこには大会など書かれておらず、水泳などともかかれてはいない。
空を見ている。
その視界に海などなく、人魚もいなかった。
空の一点で、金色が鋭く光った。


















競作小説企画Crown様 第三回テーマ「人魚」 投稿


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