キセキレイ


 人が死ぬことを「鬼籍に入る」と言うのだそうだ。
 そのことを聞いたのは彼女からだった。今は鬼籍に入った彼女に、教えてもらった。

 風が髪の毛を後に流していく。さわやかな春の風が心地よくて、俺はうすく目を閉じた。自転車をこぐ足を止め、しばらくはそのまま走る。やがて目を開け、また自転車を漕ぎ出す。
 春が既に辺りを包んでいる。いつのまに、と俺は思う。つい最近まで冬が世界を覆っていて、ひんやりと冷たかったはずなのに。春らしいものが数日来てもまた冬に戻っていたのが、いつのまにか冬はもういなくなっていた。いつのまにか、いつのまにか冬はいなくなっていて、春がいた。
 太陽が光り輝いていて、暖かい。少し暑いくらいで、実際俺はシャツの下で汗をかいていた。その汗をまとった体を風が通り抜けると、涼しくて気持ちいい。俺はいっそうペダルを蹴る。
 県道をそれて上り坂に入る。来たことのない道だが、舗装はされているし道の先も見えている。立ち漕ぎをしながら上り坂を進む。見知らぬ道。息を切らしながらも辺りを見回す。見知らぬ景色。
 彼女が死んでから、俺は1人で出かけることが多くなった。自転車で、色々な道を行く。知らない道を知っている道にしようと、がむしゃらに走っていた。風は気持ちいいし、疲れればよく眠れる。そんな理由もあったが、多分本当は彼女を探しているだけなのだと思う。

 彼女は死んだ。
 春休みだからと、母方の祖父母が住むM県に行った、その帰り道だ。丁度、県を1つ越えたあたり。人里離れたところに作られた高速道路の、小さな休憩所。車を離れ、両親はタバコを吸ってコーヒーを飲み、彼女と兄はジュースを飲みながら休憩所の周りの駐車場を歩き回っていた。そこは山の中で、駐車場の隅の柵からは周りの山々を見上げたり見下ろしたりすることが出来た。落ちたら危ない、とそんな柵のそばで、彼女と兄は遊んでいた。そして、そこから落ちたのだ。
 なぜ落ちたのかは、聞いたのだが忘れてしまった。じゃれていて落ちてしまったのか、どこかの車に突き飛ばされたのか、兄、あるいは両親が突き落としたのか。忘れてしまった。俺にとって重大だったのは、ただ『彼女が死んだ』というそれだけだったのだ。
 山の中に投げ出された彼女は何十メートルも落下していった。家族達は慌てて警察を呼び、彼女を探した。山奥であるために警察の到着が遅れ、彼女の遺体が見つかったのは落下から1時間以上後のことだった。見つけ出された彼女、何十メートルも下に落ちて行った彼女は、死んでいた。

 今もそうだし、葬式の時もそうだった。多分俺は、彼女が死んだことを理解できていない。
 通夜も葬式も出席したし、笑顔の遺影も見た。棺の中で眠る蝋人形のような彼女の顔も見た。家族ではないので斎場へは行っていないが、墓参りも何度かした。彼女のいない学校にも通ったし、1人で近くの小さな観覧車にも乗った。彼女は、いない。わかっていながら、だが彼女が死んだことを理解できていなかった。
 例えるなら、アニメやドラマの最終回を見逃した感じだと思う。最終回を見忘れて、あ、とまず呆けたような表情になる。どうしよう、と困りながら、慌てる。どうしたらいいんだろう。1話前までのことは覚えているから、まだ自分の中でそのドラマは続いている。続きを見るのを楽しみにしている。だけど、既にそのドラマは終わっているのだ、自分の知らぬところで、ちゃんとエンディングを迎えているのだ。だが、自分の中でそのドラマは、やはり終わっていないのだ。
 ドラマの話なら、ビデオを借りれば問題は解決する。だが、彼女の死の話はビデオを借りても問題は解決しない。どうしよう、どうしよう。俺は多分、そう言い続けたまま自転車を走らせている。

 上り坂がきつい。息を切らしながら、立ち漕ぎで坂の上を目指す。自転車を引いて歩こうかと思ったが、このまま漕ぐことにした。ここで諦めるのは、なんだか嫌だった。ふくらはぎが痛い、太股が痛い。息が苦しい。顔をゆがめながら自転車のペダルを踏みつけ、上っていく。見知らぬ坂、見知らぬ道、見知らぬ景色。どこかに、彼女がいたりはしないのだろうか?
 やがて、転びそうになったところで自転車を降りた。よろよろの体で自転車を立て、その場に座りこんだ。アスファルトが熱い。足を伸ばして空を見上げながら、ただ息を荒くする。見知らぬここに、だが彼女がいる気配はない。
「当たり前か」
 かすれた声を出しながら、自転車の前カゴに入れてあったスポーツドリンクを取る。一気に半分ほどあおって一息つく。冷たい水が体の中を滑り落ちていく。その感覚は心地よいが、荒い息はまだ戻らない。
 しばらくその場に座り込んだまま、息が落ち着くのを待った。
 やがて息が落ち着いてくると、立ち上がって軽く足を曲げ伸ばしする。今日はずいぶん遠くまで来た。明日は筋肉痛かもしれない。腕も空に向かって伸ばし、筋肉のほぐれる心地よさを感じる。少し体を動かしたあと、俺は後ろを振り返った。小高い山の上だから、街が見下ろせるはずなのだ。
 家屋が邪魔で見えない。腰に手を当てたまま後ろ向きに坂を上る。
「ふうん」
 広がる町。たくさんの屋根が軒を連ね、組み合わさっている。ところどころに木々も並んでいるし、学校や公園も見える。その向こうには海が見え、見知った島が並び、水平線も見えた。空も大きく広がっている。綺麗な景色だった。今日俺が通った道も、いつも俺が通っていた道も、よく見えた。
 しばらく、眺めていた。あそこはどこだろう、通った事があるだろうか、通っていないだろうか、今度はあそこへ行ってみよう。そんなことを考えていた。あそこは、彼女の家。あっちは、俺の家。
 まだ日は高い。多少遅くなっても親に文句は言われないだろうが、どこで暇を潰せばいいのかはわからなかった。一息ついてから自転車にまたがり、ブレーキを握りながら坂を下り始めた。辛く苦しい思いをして一所懸命に上ってきた坂を、あっというまに下っていく。
 途中で、小さな公園を見つけた。時間を潰すのに丁度よさそうだと、自転車を止めてその公園に入る。滑り台と砂場、ブランコとベンチ。それだけがある、小さな小さな公園だった。誰もいない。滑り台やブランコを見てみても、あまり人が出入りしているような雰囲気はなかった。公園の隅に寄る。小さな花壇があったが、雑草ばかりが茂っていた。緑色の柵をつかんで外を見ると、また街が見下ろせた。この下、校舎3階分ほど下に、道路も通っているようだった。公園内を散策しても、ボール1つ落ちていなかった。ブランコを軽く漕いでみるが、楽しくはない。ボール、なわとびなどが落ちていれば多少は遊べるのに、と辺りを見回すが、何も落ちていない。
「……帰るか」
 つまらなさそうに呟いてブランコから立ち上がったところで、ドーンッ、と大きな音がした。地面が揺れ、雷が落ちたのだと咄嗟に思った。だが空は快晴。ドーンッ、という音がまた2つ響いた。心臓が早鐘を打ち出すのを感じながら、慌てて公園の隅に駆け寄った。柵をつかんで下を見る。真下ではない、少し右の方だった。大きなトラックとバスが正面衝突していた。そして、その後に乗用車が突っ込んでいるのだ。正面衝突と、玉突き事故。どうやら5台ほどが巻き込まれ、渋滞になっているようだった。車が5台も巻き込まれる事故を、俺は初めて見た。ドキドキと心臓がうるさいのは、少しの恐怖と好奇心からだ。しばらく見ていると、巻き込まれなかった車の運転手が何人か降りて、トラックとバスに寄っていった。けが人はいるだろうか? 近隣の人々もこそこそと表に出てきている。
 しばらくして、救急車とパトカーがやってきた。救急隊員や警察官がバスとトラックの間まで来て、その場に座り込んでいる人の肩に手をかけている。話を聞いているようだが、救急隊員が誰かを連れて行くようなことはなかった。けが人はいなかったのだろうか。そう思っていると、丁度真下の辺りで、声の大きなおばさん達が話しているのが聞こえた。
「猫が飛び出したんですって。それでトラックもバスもブレーキをかけながらハンドルを切って」
「猫はどうしたの?」
「どこかへ行っちゃったらしいわ」
「あらやあねえ、でも猫じゃ捕まえるわけにもいかないわ」
「怪我をした人はいないみたいよ」
「あらそうなの。こんなに大きな事故なのに、奇跡的ねえ」
「あら、でもトラックの運転手とバスの運転手が救急車に乗るみたいですよ」
「検査よ検査。病院はお金を取りたいのよ」
 事故の話、悪い話をしているはずなのに、彼女達は興奮したように笑みを浮かべ、大声で喋っている。事故、事件はやはり娯楽なのだ。そう思うと、先ほどまで彼女のことを考えていただけに、気分が悪くなった。事故の顛末は気になったが、おばさんたちがここから動く気配はない。どうせ見ていても何の役に立つわけでもない。俺は、帰ることにした。
 人が死ねば鬼籍で、人が生き残れば奇跡、か。
 不意に、電線に目が留まった。そこには鳥がいた。飛んできたのも知らなかった。もしかして、俺が来た時も既にいたのだろうか。その鳥はスズメでもハトでもカラスでもないようだった。俺が知っている鳥の中にこんな鳥はいない。珍しい鳥なのだろうか、それとも俺が無知なだけなのだろうか。背は淡い灰色、そして腹が黄色。スズメよりは大きいように見える。長いしっぽを上下に振っており、その姿が何故か楽しそうに見えた。見知らぬ鳥。
 あるいは、あれが彼女なのだろうか。そう思うと、不意にその鳥がこちらを向いた。驚いて一歩身を引いた。ピキン、ピキン、と鳴いてその鳥は飛んでいった。
「あっ」
 目で追おうとしたが、太陽に阻まれる。手で太陽を隠しながら空を探したが、その鳥はもういなくなっていた。
 そうか、彼女は死んでしまったのだ。
 なぜかはわからないが、その鳥がいなくなったことで、俺はそれを理解することが出来た。

 さわやかな春の空気を切るように、俺は必死で上ってきた坂道を楽々と下る。
 鳥はいない。彼女もいない。俺は目尻に涙を感じながら、坂道を下っていく。


















キセキレイ、軌跡、奇跡、鬼籍 競作小説企画Crown様 第五回テーマ「キセキ」に投稿しそこねた作品。笑


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