しらさぎはどこにいる


 小学生の時に見ていた風景だ。
 そう気がついたのは最近のことだ。いつも、記憶を刺激するような風景だな、とは思っていた。「あれ、この風景、見たことがある」ではなく「そうそう、この風景っていいんだよね」という感じだ。それがどの風景だったのか、思い出す前は不安だったのに、思い出してからは懐かしく愛おしく思える。そのきっぱりとした自分の変化が、自分で微笑ましく思えた。
 その風景は、駅のホームに立っているときに何気なく斜め上に視線を向けたときに見える。いつも見るわけではなく、時々何かの拍子にふと見上げることがある。そこには、人工物が何もない清々しい空と、向かい側のホームのトタン屋根がある。今は愛おしい、その風景。雑踏の中で見上げた大きな自然。うっとうしい日常というホームの上から見える、非日常的な清々しい青空。この風景は、あそこ以外のどこで見ることができるだろう、と不意に思った。
 「電車が参ります」というアナウンスの声を掻き消すように、あの風景の見える駅へ向かう電車がホームへ入ってきた。なぜ、「はいってくる」と言うのだろう。停車する位置には屋根もないし、倉庫になっているわけではない。ただの、比喩か。
「やあっと電車来たよ。さむさむ」
 隣であゆみが体を震わせた。手をこすり合わせてから、彼女はスクールバッグを肩にかけなおした。小中高と同じ学校に通うわたし達は、土曜日だが希望者と指定者の補習授業があるため、早めの昼ごはんを食べて高校へ行くところなのだ。わたしは数学のテストが悪くて指定者だが、あゆみは希望者だ。彼女が着ているのは、わたしと同じ高校の制服。この制服はあゆみには似合わない、とわたしは思う。はっきりとは言えないのだが、何かが違うと思えるのだ。彼女にはもっと違う服が似合う、と思って頭の中でファッションショーをしてみるのだが、わたしのセンスが悪いのかそのどれも彼女には似合わない。
 降車する人を待ってから、あゆみは嬉々として車内へと進む。彼女に続いて暖かい車内へ入りながら、「閉まりますドアにご注意ください」という声を聞き、なんとなく振り返った。プシューッ、と音を立てながらドアが閉まっていく。ぴたりと閉まったドアの向こうに、下車した中年の女性の背中姿が見えた。
「昔さ、降りる人が先ですよ、ってよく言われたよね」
 座席に座りながらあゆみが言った。他の座席が空いているのを確認してから、わたしも向かい側に座り、隣の席にかばんを置く。
「そうだね、言われたかも。遠足の時かなあ」
「よく考えてみると、幼稚園なのか小学校なのか、それと何に乗るときなのか、って思いだせないよね」
「うん、いつだろう。エレベーターとかバスもあるかな」
「いや、電車だね」
 あゆみが身を乗り出す。そのさっぱりした口調に少し驚いていると、にやりと笑った。
「絶対に電車だよ」
 そのまま得意げな笑みを浮かべ、背もたれに背を預けると足を組んで窓の外を見た。何故かつられるように、わたしも窓の外を見た。だれが住んでいるのかも知らない箱のような家々が、たくさん並んでいる。
「あ。なんかさ、今あれ見た瞬間、『"かなこ"だ』って思った」
「えっ?」
 ほら、あっち、とあゆみが指差す先に目を向ける。家がたくさん、学校、ガソリンスタンドやコンビニ、デパート。指と町並みを交互に見るが、あゆみが何を指しているのかわからない。
「どれ?」
「ほら、あれ、何、電柱みたいな東京タワーみたいな奴」
 眉根をひそめながら窓の外に目をこらし、やっとあゆみが指しているものがわかった。市街地に転々と連なる、銀色の塔。山の向こうから、線路に対して斜めに進み、線路を越えた向こうの市街地も取っている。
「電気の鉄塔のこと?」
「うん、あの、東京タワーみたいな奴」
「そういえばわたし、あれって全部テレビ塔なんだと思ってた」
「へえ、そうなんだ。まあ、東京タワーみたいだしね」
「好きだね、東京タワー。さっきから言いまくり」
「だって似てるじゃん」
 笑ったのがいけなかったのか、あゆみは口を尖らせてそっぽを向いた。軽く謝るべきかと思ったが、で、と人差し指がこちらを向いた。
「ねえ、なんかかなこっぽくない? ぽつんと立ってるけど市街地にあって、山にもあって。それで、なんかごつくて荒い感じがするのに、優しくて温かくて頼りになる感じ。そうそう、みんなの役にも立っている。あ、これは、真っ直ぐ立っている、とかけてるから」
 曖昧な返事をしてから、わたしはその鉄塔を見つめた。あれが、かなこ?
 違う、と思った。かなこはあゆみの思っているような人間じゃない。そう、確信を持って言える。かなこの1番近くにいるわたしだから、あゆみの言っていることが間違いだと言える。だが、確かに外側だけ見れば、かなこはあの鉄塔だ。あゆみの言うとおり、粗放なようで慈愛をも感じられる雰囲気。だが、違う。
 窓の外を看板が通り過ぎる。社名と、卵の殻をかぶったひよこの絵。そう、かなこは卵だ。硬い殻に覆われているのに割れやすく、白身の中にぷっくり黄身が浮いていて、その黄身は弾力がありながらぷちと割れてしまう。卵、かなこは卵だ。
 その考えが気に入って、思わず笑みが浮かんだ。
「どしたー?」
「なんにも」
 顔を覗き込みながら聞いてくるあゆみに微笑み返す。あゆみも微笑み、にんまり笑いあう2人の少女、という不思議な光景ができた。変なの、と心の中で笑っていると、あゆみははっと気がついたように手を合わせた。
「あ。そいえば、何か今"かなこ"って言葉の響きで思い出した」
「なあに?」
「昔さ、ようくんとかなこは付き合ってる、って噂あったよね」
 わたしは思わず吹き出した。
「それって小学生の時の話だよね」
「そうそう。なんか、みんな知ってるーって感じの噂だった」
「わたしはまだガキで、そういう噂知らなかったけどね」
「あ、そうなの?」
「うん、中学に入ってからだれかにそうやって言われて、へえ、そうだったんだー、って」
「えーっ、でも、あの頃ってそういう噂とか1番好きだった頃じゃない? なんか、お姉さんになりたがってたというか」
「ああ、わたしはガキだったしなあ。そういうこと気にしてなかったと思う」
「わたしなんかそういう噂とかすっごく追いかけてたけどな」
「おしゃまさんだ」
 いくつめかの駅に止まり、冷たい空気が流れ込んできた。話をしていると時間を短く感じるようで、意外とそうでもない。ああ、これはあっというま時間が過ぎてしまったパターンだな、と思っているのに、ほんの少ししか時間がたっていないのだ。
「小5の頃だったよね」
「うん、1番お姉さんに憧れてた時期。まだまだガキだったけど」
「小学生とか見ると、えーっ、わたしこれだったんだー、って思わない?」
「思う思う。小さいしね、うるさいし。わたしはこんなんじゃなかったー、って思いたい」
 賑やかに笑いあうが、決して他の乗客の邪魔になるほどではない。爆笑することもないし、このぽかぽか陽気でうつらうつらしている人がいたとしても、多分邪魔にはなっていない。わたしの声もあゆみの声も甲高くないし、と思うが、一旦考えると少し不安になる。声を少しひそめるが、おしゃべりはやめない、やめられない。
「そういえば、テストとかの日に気がついたんだけどさ。あのさ、わたしの家の前というか横がさ、小学校の通学路になってて、多分小学生の3分の1くらいかな? が通るんだけど、わかるよね」
「うん、わかるわかる」
「その、丁度15時を過ぎた頃の、5分か10分くらいね。そのころになると、すごいんだよ。家のすぐそばがうるさいのなんの。丁度、あ、15時だ、ってわかるくらいに」
「おお、丁度いいじゃん。おやつ食べるのにさ」
「時間がわかるのも面白いんだけど、何が面白いと思う?」
「えっ、わかんない」
 にやりと笑いながら、わたしは身を乗り出す。楽しそうな表情で歩みも身を乗り出す。わたしもこんなような表情なのだろうと思った。
「そのうるさいの、ほんの1分くらいの間だけなの」
 15時を少し過ぎた頃、突然家のそばがやかましくなる。小学生の帰宅集団。ランドセルを背負った彼らが足並みをそろえて道を進み、わいわいと騒いでいる。彼らは、本当に集団なのだ。かたまりなのだ。
「うるさくなったと思うと、あっという間に誰もいないんだよね。おもしろいよ、あれ」
 へえ、とあゆみの関心は微妙だ。無理もないと思う。だが、あれは一度体験するとものすごく面白いのだ。えっ? と必ず笑みを浮かべるはずなのだ。


 そう、小学校の、5年2組の教室だ。
 電車を降りて、ホームと改札をつなぐ階段を降りながら思う。降りた電車を振り返ることはしないため、今は見なかった。いつも電車を待っているときに見る、愛おしい風景。2つ向こうの、北陸行きの列車をぼんやり見ながら、ふと上を見上げるのだ。その風景を思い出し、さらに教室から見えた風景を思い出す。重ねてみれば、それがまったく違うことがわかる。片や、空とトタン屋根、そしてもう1つは。覚えているあの風景は。
 左側に体育館、右側に市街地。そしてそれらの向こうに海、空。そういう風景だ。あまり似てはいない。多分、からっと晴れた空と、体育館の波状のトタン屋根からの連想だろう。あと、屋根のあるところから身を乗り出して空を見る感じ。
「あ」
「どうした?」
 なんでもない、と答えながら心の中でクラッカーを鳴らした。ふと思い出したそれは共通項ではなかったが、とても心が温かくなるような、やはり懐かしくて愛おしいものだ。
 体育館の屋根の上には、時々、サギが止まっていた。
 手が伸ばせば届きそうな、体育館の屋根。もちろん、現実には走って跳んでも届かない距離だが、そう思えるのは、見下ろす市街地と空と海が遠く見えるせいだ。その、体育館の屋根に、真っ白な鳥は止まっていた。細長いシルエットは、町にいるハトやスズメ、カラスとは違う。まるで動物園にいるような、美しい鳥だった。時々そこにおり、時々いないサギ。美しいシルエットで立つサギは、市街地を、海を見下ろしているように見えた。
 覚えておこう、と思った気がする。綺麗な風景だ、と。美しい風景だ、と。覚えておきたい風景だ、と思ったのだ、幼い、ガキだったわたしは。
 電車の発車時刻と行き先を告げる電光掲示板に、「しらさぎ」と書いてあるのが見えた。いつもあの風景を見るときに、2つ向こうに止まっている電車の名前だ。特急しらさぎ。トタン屋根の上に立っていたシラサギ。トタン屋根の下に止まるしらさぎ。
「そういえば、この前、バイト中にね」
 うん、と突然話し出したあゆみに合わせる。
「白い鳥見た。なんか、白鳥みたいに綺麗だった。何の鳥だったんだろ」
 それはきっと、サギだ。シラサギだ。
 なんだか嬉しくなったのと、悪戯心が重なり、わたしはあゆみをおいて改札に向かって駆け出すことにした。
「あ、ちょっと待ってよ、かなこっ!」
 笑みを浮かべながら改札に定期券を通し、通り抜けた先で振り返る。頬を膨らませたあゆみがわたしを追いかけて駆けてくる。
 その後ろの電光掲示板で、不意に「特急しらさぎ」の文字が消えた。
















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