ごみ箱の中
冷たい風が体に触れるたびに痛みを感じる。
小さな氷の粒が腕や足にぷすぷすと刺さっているような気もしてくる。だが、この寒さをしのぐ為に暖房の効いた室内に入るとしよう。刺さっていた氷の粒は溶ける。だが、穴の開いた箇所はどうにも戻らず、割れた皮膚が乾燥していくのが手に取るようにわかるではないか。外にいるか中にいるか。一度外に出た以上、どちらにいるのも憂鬱だ。
「楓っ、おはよー」
楓は呼ばれた声に振り向く。姫子が自転車に乗り、手を振ってこちらに向かってきていた。楓は笑顔をほころばせ、大きく手を振り返す。にっこりと微笑んだ姫子は、楓の前で自転車を降りた。
同じ大学に通う2人は、いつもこのバス停で会う。楓がバスに乗ってこの大学前で降り、丁度その頃に姫子が自転車でここを通るのだ。お互いに少しずつ時間がずれることもあるが、いつからか早い方が待つという習慣になっていた。最近は楓が待つことが多い。
「ねえ、月曜締め切りのあのレポートどう? 終わった?」
「あんなの無理よ、他の課題もあるし。終わらないのは覚悟して土日にまとめてやるつもり」
姫子が自転車を押し、隣に楓が並んで歩く。バス停から大学までの5分の道のり。バスの中ですっかり温まった楓の体も、この5分ですっかり冷めてしまう。
「土日にやるんだ。わたしは毎日少しずつやるけど、それでも終わらないかも」
「だって、わたしは楓と違ってこつこつ出来ないタイプだもの。一夜漬けタイプっていうの?」
「一夜漬けなんてしたことあるの?」
「ないわ。例え話よ。徹夜したことないもの。遅くても1時には寝る」
「えー、わたしは試験前とかは勉強してないと落ち着かなくて徹夜したりするよ」
「だってわたし諦めてるもの。今の自分の力で出来ないなら、仕方がない!」
「わーお、姫子かっこいー」
首に巻かれたマフラーに隠れそうな2人の口が、せわしなく動いている。だが幾分動きが鈍く、喋る度に白い息がほわりと吐き出されている。
「……なんで、勉強しなきゃいけないのかなあ」
「中高生の永遠のテーマ『何故、勉強をせねばならないのか!』って?」
「それは、勉強したくないから言う逆ギレでしょ? そうじゃなくて、うーん。なんで、知りたがるのかなあ、人って。って」
「そうね、なんででしょうね」
2人は同時に空を見上げた。グレー。重くない灰色。ここはあまり雪の降らない地域だがそれでも、冬の空はいつでも雪の気配を持っている。
なぜ。この言葉も、楓は不思議に思う。変な言葉。理由や原因、意味を問う言葉。なぜ。「なぜ」はなぜ「なぜ」という言葉なのだろう。言葉遊びみたいだ、と楓は小さく笑った。
「うん、なんでだろう」
「なんでかしらね」
ほう、と吐き出された息が渦を巻く。一瞬の内に掻き消える白色は、雲の色とは違いずいぶんかわいらしい感じがする。あ、と丸い息が吐き出され、楓は眉間にしわを寄せる。
「そういえば、聞いてよ姫子!」
「なあに?」
むっとした表情で、拳を固めた楓が姫子を見上げる。
「今朝の3時ごろにさ、孝から電話があってね? 朝の3時だよ? 起きちゃったけど面倒だし放っておいたの。起こされてイライラしてたし。でもずっと鳴らしてるから仕方なく出たの。そうしたら何だったと思う? 彼女に振られたから愚痴聞いて、って言うんだよ? ふざけんなー、って切ったんだけど、その後何度もかかってきたから一通り聞いてたの。久しぶりに日の出見ちゃったよ、もう」
「近藤君か。相変わらず女の子の出入り激しいわね。でも、今回は続いたんじゃない? 3週間くらい?」
「あれ、知らない? 孝、あゆみさんとは10日くらい前に別れて、その2日後くらいからなつみちゃんって子と付き合ってたんだよ」
「へえ、知らなかった。そうだったんだ」
「そうそう。アイツ女遊び激しいから、結構色んな子が『今誰と付き合ってんのー?』って聞いてくる」
「え、楓に?」
「うん、幼なじみだから知ってるでしょーって。そんなに全部知ってるわけじゃないのに」
口を尖らせて、虚空を睨む楓。苦笑いを浮かべた姫子が肩をすくめた。ふと2人の横を、自転車が通り抜けていく。おはよう、とその彼は言い、楓がおはようございますと軽く叫んだ。サークルの先輩だよと、姫子が聞く前に答えた。
「で、アイツの愚痴がさ、もう! いちいちわたしと比べるし、しかもまた付き合おうって言い出すし!」
「いいじゃない、付き合ってみれば」
「高校のときに5回くらい付き合ったんだってば」
「あれ、知らなかった」
「あれ、言ってなかったっけ。全部『やっぱりお前は俺にとって女じゃない』って向こうから捨てられた。もー、いい加減縁切りたいよー! もう、本当に嫌になってきた。むかつくなあ、わたしのことを何だと思ってるんだ!」
両腕を上に突き上げて怒ったように叫ぶ楓。ぎっとかみ締められた歯の間から苛立ちがにじみ出ているようだった。姫子はふっと笑うと、彼女の頭に手を置いた。
「よしよし、いつも大変だねえ」
楓は口を尖らせて苛立っていたが、姫子の手をはらいはしなかった。道路を忌々しそうに睨む楓の頭を、姫子は優しい手付きで撫でる。ふと一瞬、楓の表情が呆けたような無表情になる。催眠術にかかったかのようにうつろな目。軽く開いた口から、機械的に白い息が吐き出されているだけの、空っぽな表情。そして楓の頭の上に乗っている姫子の手が薄く光る。空っぽな楓とにこりと微笑む姫子は、ゆっくりと歩いている。姫子がふわりと光った手をそっと離すと、その光は僅かに糸を引き、楓の頭から姫子の手の平に吸い込まれるようにして消えた。はっと目を覚ますかのように、楓は道の先に焦点を戻した。そしてゆっくりと、何事もなかったように微笑みを浮かべた。実際、彼女にとっては何事もなかったのだ。姫子も合わせるように微笑んだ。そして姫子が、確かめるように聞いた。
「そういえば、孝君とは最近どう?」
「孝? 最近連絡もないし、会ってもないかな」
軽く首をひねり、絞り出すように楓は言った。最後に会ったのはいつだっけ、と眉間に指先を当てて考える。その様子をやさしい笑みで姫子は見つめている。楓は不意に、姫子に視線を合わせて首をかしげた。
「あれ、姫子が孝のこと聞くなんて珍しいね。どうしたの?」
「ううん、なんでもないわ」
2人は朗らかな微笑みを浮かべていた。
学内に数多くある休憩スペースの1つ。6号館と呼ばれる建物の玄関口にあるそこで、昼食を終えた楓と姫子がくつろいでいた。少し離れたところで何人かの男性が騒いでいる以外に人はいない。
「午後なんだっけー」
「んー、松岡じゃない?」
楓が紙パックのジュースをすする音がする。姫子がちょっと頂戴、と手を伸ばす。
「いいわね、柑橘オレ。カンキツ、ってところがいい」
「ミカンとグレープフルーツの味が濃いよ。あと、乳飲料っぽい感じ」
「あー、本当だ。なんだろ、ミックスオレよりもすっぱいね」
「柑橘オレだもん」
楓が姫子の手から紙パックを取り返し、ストローをくわえた。ちらと姫子がその口元に視線を送る。薄い唇がくわえたストロー。その視線に気がついたらしく、楓が首をかしげてどうしたのと聞いた。
「あ、うん。楓ってさ、間接キスって気にする人?」
「ごめん、拭いた方が良かった?」
「ううん、そうじゃなくて。なんとなく思ったの、ほら、男の子とかさ」
「そういうことか」
ストローをくわえたままジュースを飲まずに、楓は少し離れたところの男性集団に目をやった。姫子の視線は楓に向いている。そうだなあ、とストローをくわえたままの口が言う。
「あんまり気にしないかな」
「そう」
「あ、でも、唾がべたべただったら嫌だ。あと女の子だけど、口紅」
「うん、口紅がついてる奴はわたしも嫌」
「それと、そうだな」
なあに? と姫子が言う。楓は少し視線を泳がせる。言うのを躊躇っている、というのが手に取るようにわかった。姫子は首をかしげてみせたが、急かすようなことは言わなかった。
「好きな人が、今、いるんだけど……、その人なら、気になる」
姫子が大きく瞬きをした。
「うん、言おうって思ってたんだ、姫子には」
「……だれ?」
「サークルの先輩なんだけどね」
楓は辺りをうかがうように視線を走らせてから、姫子の耳元の唇を寄せた。
「高木先輩、っていう人。知ってる?」
照れたように笑う楓は姫子の顔を覗く。目をぱちくりさせながら、姫子はゆっくりと頷いた。
「多分知ってる。あの……背はあんまり高くなくて、目が細い感じの……、今朝すれ違った人?」
「そう、その人」
嬉しそうに、少し頬を赤く染める楓。かわいらしいその仕草を、姫子は真っ直ぐに見つめた。
「去年くらいから、いいなって思ってたの。それで今年くらいからね、ちょっと仲良くなって、やっぱりいいなって。挨拶とかの仕方とかそういう笑顔がね、すごく素敵なんだよ。この前彼女いるんですかって聞いたんだけど、いないって言ってて。その後何も言えなかったんだけど、そのときわたし、やったあっ、って思ったの。それってやっぱり好きってことだよね。それで姫子に言おうと思ってたんだ」
楓は、かわらしい笑みを浮かべた。ほんのり赤い頬で、視線を泳がせながら丸い瞳をせわしなく動かしている。楽しそうに恋を語る楓に、姫子は拳を握り締めた。苦さを噛み締め、楓から目をそらす。楓はえへへと笑うのみで、姫子が視線をそらしたことにも気がつかなかった。姫子が躊躇したのは一瞬で、楓の頭に手を伸ばす。途中でふと気がついたように伸ばした手の矛先を変え、楓の頭を抱えるように軽く抱きしめた。
「姫子? どうしたの?」
楓のくぐもった声。姫子の両手は楓の頭をそっと抱きしめる。手のひらが髪の毛をそっと撫で、ボブカットのような黒髪が少しだけ乱れる。
「うん、そうね」
思いつめたような、か細い声だった。
姫子はきゅっ、と抱きしめる腕の力を一瞬だけ強くする。すると、ぱち、と静電気が爆ぜるような音がした。姫子の腕の中の楓が気絶したかのように姫子に寄りかかった。やがて楓の頭と姫子の腕が薄く光り始めた。朝、姫子が楓の頭を撫でた時と同じ光だった。全体的にぼんやりと光っているが、よく見ると小さな粒が飛び交っていた。その小さな光の粒は、楓の頭から姫子の腕へと吸い込まれるように流れている。光はぱちぱちと小さな音を立てながら、楓の頭を離れて姫子の上の中へと入っていった。
やがてその光が途切れると、姫子はゆっくりとその腕を離した。糸を引いた光が、ぱち、と弾けた。目を伏せた姫子の表情は少し青い。緊張しているようだった。浅く息をする姫子はゆっくりと楓に視線を合わせる。楓は何事もなかったように、どうしたの? と心配そうに姫子の方を見上げていた。姫子は、なんでもない、とゆっくりと首を振る。
「そう? あ、ねえ姫子姫子、今日見つけたんだけど、今度さ、柑橘オレじゃなくてシュガーオレっていうの買ってみようと思うんだ。でも砂糖と牛乳って、何か怖いよね」
不意に立ち上がり、笑顔で言う楓。紙パックを軽く振ると、近くのゴミ箱に向かって投げた。音もなく、吸い込まれるように紙パックはゴミ箱の中に入っていった。
「わーい、入った」
「ねえ、楓」
姫子はゆっくりと立ち上がる。不思議そうに、楓がなあにと聞いた。
「今、好きな人、いる?」
楓は、きょとんとした。驚いたような表情で姫子の顔を見つめ、ゆっくりと首をかしげた。同じようにゆっくりとした動きで口元に人差し指をあて、視線を上へ向ける。うーん、という悩むような声。沈黙はほんの数秒。少し向こうで、男性の笑い声が大きく音を立てた。不意に楓は手を広げながら、その場でくるりと回った。
「いないよ」
ふっ、と姫子はそっと微笑む。無意識の内に力を入れていたらしく、体が弛緩するのがわかった。手や胸元に汗をかいている。姫子は、楓の表情を見てほっとしたように一息ついた。
楓が時計を見上げ、そろそろ行こっか、と歌うような口調で言った。
「そうね、一緒に行きましょうか」
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