仙人の戯れ
ない。
そのことに気がついてわたしは眉をひそめた。
自分の部屋の、北側の窓だ。1間半ある高さの内の、上の半間にある窓。朝の光は直接入ってきやしないが、カーテンを開けるとどこかから反射してきた明かりが部屋に差し込んでくる。その窓枠に、わたしはいつもあれを置いている。それが、なかった。
制服に腕を通して、止め忘れた目覚まし時計を叩く。軽く髪を整えてから鞄をつかみ、呼ぶ母に答えて部屋を出る。不意に、一歩下がる。もう一度見ても、窓枠には何の姿もなかった。はあ、とため息をついて、朝食へ向かった。
気がついたのは、多分、1ヶ月ほど前だ。朝、学校へ行く支度をしながら、何気なく150円で買ったミニサボテンに目を留めた。正確には、留めようとした、だ。そこにおいてあったはずのサボテンは姿が見えなかった。不思議に思って窓の下や他の窓枠、机の上などを探してみたが、サボテンはどこにもいない。背伸びしてみてみると、北側の窓枠には丸く、鉢のあった跡が残っていた。おかしいな、と思って探そうと思ったのだが、学校に間に合わなくなってしまう、と出て行った。電車に乗ると、中学校の頃の大嫌いな同級生と会ってしまった。同じく、息の臭いおじさんと隣になった。駅から自転車で学校に向かう途中に軽トラックに軽くぶつかった。自転車置き場で自転車ドミノの下敷きになって早引けした。楽しみな調理実習とバレーの試合ができなかった。病院に行くと左手首にひびが入っていた。
その日は当然、帰ってからサボテンを見ることはなかった。次の日の朝も、特にサボテンに目をとめることはなかった。残念だったね、と翌日言われた時に、不意にサボテンを思い出した。そういえば、サボテンはどこへ行ったのだろう。と思い出したのだ。だが、左手をつられた生活に慣れず、その日もサボテンを見なかった。
サボテンの姿を確認したのは、何故かなかった日から3日後の朝だった。いつも通り、北側の窓枠においてあった。この前はなかったはずなのにおかしいな、と思いながらも失くしたのではなくて安堵した。その日、電車で中学校の頃の先輩に会った。自転車では、待ち時間が長くて渡れる時間が短い魔の交差点で、止まることなく進めた。授業では寝てもばれず、当てられた問題はなぜか分かり、お弁当も大好物だった。
偶然だとは分かっていながらも、わたしはそれから毎朝サボテンを見ることにした。あればいいことが起きる、なければ悪い事が起きる。そのジンクスは、外れることはなかった。どちらでもないときは、忙しかったりしてサボテンを見てないときだ。あるいは、見たけれど、後から思い出そうとしてもあったかどうか覚えていないとき。サボテンがあればいいことが起きる。サボテンがなければ悪いことが起きる。わたしのサボテンは、そういうしるしだった。
電車に間に合わないかもしれない。玄関から飛び出しながら思った。サボテンがなかったということは、乗り遅れてしまうということだろうか。だが、これに乗り遅れると遅刻になってしまう。乗り遅れるのだけは困る。鞄を抱えて思いっきり走った。スニーカーがたんたんという足音を立てている。走らなければならないので革靴ではなくスニーカーにしてきたのだ。息を足のリズムに合わせて吐き出しながら、髪を振り乱して走る。遅れるわけには行かない、遅れるわけには行かない。
台所の時計が遅れていた。今朝の不幸はこうだった。まだ余裕だと思って牛乳を飲んでいた。母が不意にテレビをつけ、そこに記されていた時間が時計と違ったのである。3分ほど違っており、わたしは慌てて駆け出してきた。いつもならテレビもずっとつけてあり、時計とテレビの両方で確認していたのだが、今日はテレビをつけていなかったため、見なかった。そういう日に限って、時計は遅れていた。こんな不幸。偶然が2つ重なった、不幸。
駅へと駆け込む。皆ホームで待っているのか、人は少ない。ベンチにはサラリーマンらしき人々が座っている。息をついて時計を確認し、ほっと一息をつく。時間はまだある。定期券で改札を抜けて、向こう側のホームへ。2分あれば大丈夫だ。鞄から定期入れを出しながら、小走りに改札へ向かう。びたん、と転んだ。どうやら靴紐がほどけていたらしい。久しくスニーカーをはいていなかったため、紐が緩んでいたようだ。鞄に手を突っ込んでいたせいで顔からぶつかりそうだったが、なんとか左手をつくことができた。だが右手が紐にしめつけられて痛い。人の集まる駅の中で転んだことに羞恥心を覚えながら立ち上がり、左手についた砂を払い、右手の手首を回しながら改札へ駆け寄る。定期券を通して、小走りで2番ホームへ向かった。丁度一息ついたところで、電車がやってきた。乗り遅れなくて良かった。痛むひざを軽くはらってから、わたしは電車に乗り込んだ。
電車の中では大した不幸もなく、わたしは目的の駅で降りた。改札を通って自転車置き場へ向かう。そして、覚えている限りの場所に、自分の自転車がなかった。半泣きになりながら、いつも止めている辺りを探す。どこに置いただろうか。いつもと同じ辺りに置いたと思ったのに。盗まれたのだろうか、と思いながらもそれを係員の人に言い出すのがなぜだか情けなく思え、焦りながらも探した。結局、いつもの場所よりも柱を2つ越えた辺りにあった。そういえば、置くスペースがいっぱいだったのだと思い出した。時計を見てまた泣きそうになりながら、車には気をつけて学校まで行った。ほぼ遅刻だったが担任はギリギリセーフと言ってくれた。へとへとに疲れた状態で自分の席に着き、笑っている友人に軽く苦笑いをしてみせ、1時間目の授業から寝た。日本史だった。ワースト3に入るほど嫌いな教科である。
「あんた今日悲惨だねー」
そう言ったのは前の席の友人だった。今はもう昼休みで、彼女には朝のいくつかの不幸の件も話してあった。ごはんが変に偏り、おかずの並びも美しくない弁当をつついて、わたしはこくりと頷いた。きれいなお弁当を前にした友人はそろりとわたしのきゅうりに手を伸ばした。
「なんだっけ。時計が遅れてて、駅ですっ転んで? 自転車が見つからなくて、1時間目から日本史。体育の片づけ中に顔ぶつけて鼻血?」
そう、と答えながらわたしは、あっ、と声をあげた。
「で、さらにハンバーグを落とした、と」
軽くため息をついてから椅子の下に手を伸ばし、三角に切られたハンバーグをつまむ。弁当の蓋に乗せてから、箸の先をくわえる。落としてしまったから仕方がないが、もったいない。昨日の晩御飯の残りではあるのだが、食べたかった。
「あのさ」
そう呟くと、なあに、と返事があった。
「食べられないと分かると、すっごく食べたいよね」
「ああ、わかるわかる。テレビなんかそうだよね」
「うん、そう。食べたくてたまんなくて嫌な思いになるのはわかってるのに見ちゃうんだよなあ」
「ラーメンとか肉が一番熱いよねえ」
「ラーメン、そうラーメンだよ。あー、ラーメン食べたい」
友人が弁当箱を片付けるのを見ながら、わたしも最後のご飯をかきこみ、咀嚼しながら蓋を閉じる。口を動かしながら袋に戻してお茶をいっぱい口に含む。お互いが食後の幸せそうな笑みで、だらけている。ちょっとした幸せを感じながら、わたしはなんとなく教室内を見回した。5箇所ほどに別れ、みんな談笑している。まだお弁当を食べている子たちもいた。男子はもう食べ終わっているようだ。そんな、窓際の一角の一人の青年に目をとめる。さわやかに笑う1人の青年。中途半端な長さの黒髪が小刻みに揺れ、声を立てて笑っている。何を面白がっているのだろう。まつげが揺れる横顔を、ぼんやりと見つめた。
「なーに見てんのよ」
「……ばーか」
にやつく友人に軽く悪態をついて視線をそらす。わたしに好きな人がいることを、彼女は知っている。だから、多分今何を見ていたのかもわかっているのだろう。にやつく視線でこちらを見つめたまま、彼女は何も言わない。やがて、そういえばさ、と話を切り出してくる。自分の購読している雑誌の話。適当に相槌を打ちながら、筆箱を出す。赤色のシャーペンを出して、机に落書きをする。
「その中でさ、恋が叶うおまじないってあったんだけどさ、ああいうのって、誰が考えるのかな」
適当にひよこを描いて、消す。猫、犬、消す。ハート、消す。
「占いなんかは、一応その人にとって根拠ってあるじゃん? おまじないはさ、作る人にとって根拠はあるのかな?」
おまじない。ふとサボテンのことを思い出した。あったら幸せ、なければ不幸せ。
サボテン。鉢と、その上の丸い物体に、棘。
きっとないよね、と勝ち誇ったように友人は笑っている。1人で満足げに頷く彼女に、そうだねえ、と気のない返事を返した。聞けよ、と頭を小突かれ、笑いあった。消しゴムは置いたまま、棘をたくさん生やしていく。線も補強しながら、かわいらしいサボテンを机の上に描き、ハートを飛ばした。
なかなかかわいい出来だ。得意げに笑みを浮かべて、机の上のごみを軽く払う。
「何それ。サボテン?」
はっと顔を上げた。先ほど窓際で笑っていた、彼だ。彼が、目の前にいた。驚いて身を引くが、彼はサボテンを面白そうに見つめていた。ねえ、と顔を上げて視線がこちらを射抜く。
「自分で描いたの? サボテン」
「あ、うん。そう、今、ちょこちょこっと」
へえ、と面白そうに机を見つめる彼。少し視線を泳がせていると、目の前の友人と目が合った。にやり、と笑っている。軽く舌を出してみせる。不意に、彼が友人に呼ばれた。なに、と笑顔で答えてみせる彼。はいはい、と笑いながら読んだ友人の方へと向かう。数歩進んだところで振り返った。
「ありがと」
え、とか、あ、とか言っている間に、彼は友人の元へ小走りで突撃した。談笑しているところを目で追っていると、身を乗り出した友人が肘でつついた。むっとした表情で視線を合わせる。
「よかったじゃないですか。ねえ?」
「はいはい、そうですね」
わたしは対して彼と仲がいいわけではない。席も近くないし、最後にいつ喋ったのか思い出せないほどだ。密かに思いを寄せる乙女として、飛び上がるほどの幸せだ。胸の高鳴りはもうしばらく治まりそうにない。にやつく友人は、予鈴を聞くと前に向き直り、次の授業の教科書を出した。わたしはシャーペンをくるりと回した。がたがたと席に着き始めるクラスメイトを見ながら、やはり目をとめるのは、彼の姿。窓際の彼の横顔は下を向き、教科書を見つめてシャーペンをくるくると回していた。わたしもシャーペンをくるりとまわす。
不意に視線を落として、机の上のサボテンを見つめた。今日はサボテンがなかったから、不幸が続いた。その流れで行くなら、今の幸せはおかしい。サボテンがなかったのだから、あの幸せもなかったはずだ。机の上、丸いシルエットの、ハートのとんだサボテン。
サボテンは、この机の上にある。
さぼてんは漢字で書くと「仙人掌」
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