わたしは恋をします
1人では決して出来ない、恋をします


  恋愛小説 猫


 雨上がりの交差点を早足に突っ切る。渡りきったところで信号は赤になった。信号が点滅しても、赤になっても悠々と歩く人間がいるが、わたしは嫌いだ。だから、黄色信号、青信号点滅になったら走ることにしている。
 今わたしが通った横断歩道を踏みつけてゆく自動車たち。既に退路はふさがれた。一瞥をくれてから、わたしは通学路を先へ急ぐことにした。
 アスファルトの道はところどころ濡れている。昨晩遅くから今朝明け方まで雨が降っていたのだ。だがすでにその雨もどこかへ行ってしまったらしい。朝日がその痕跡を消そうと光を放っている。まだら模様のアスファルトの上。不意に顔を上げると、空の8割を覆っている雲が丁度太陽を隠したところだった。薄く光る雲。天使の梯子を探したが、雲に切れ間はないのか、光はどこからも漏れていなかった。
 雲に覆われた空。かろうじて見える雲の向こうもほとんど白く、全体的にどんよりとした色合いだった。太陽の付近だけは雲が動いている様子も分かるが、他の場所ではその雲が止まっているのか動いているのかすらわからない。どんよりと暗い白。どこか寂れた城壁のようなイメージがあった。
 不意にわたしは思った。猫が飼いたい、と。
 脈絡は一切ない。ふと、なんとなく、突然思ったのだ。猫が飼いたい。親に言えばもちろん反対されるだろうし、面倒をちゃんと見るのか、と言われてもわたしはイエスとは答えないだろう。ただ遊び相手が欲しいのと、猫とじゃれあいたいだけ。お金を出して猫を買い、お金をかけて猫を育てていこうなどとは思わない。それでもわたしは思うのだ。猫が飼いたい。
 ふとわたしはそこへ立ち止まった。片側一車線車道の脇には、一段高くなった歩道がある。その車道側の隅には等間隔で街路樹が植えられている。イチョウの木で、秋になれば黄色い絨毯が美しいが、掃除が非常に面倒、というものだ。木々をはさんで向こう側、びゅんびゅんと車が通り抜けていく。わたしが見ているのは、その手前にあるもので、さらに言えば視線は下を向いていた。
 イチョウの木の根元。横たわる猫の体。
 見るからに力のなさそうな、その猫。そよそよとふく風が少しだけ毛を立てる。まるで剥製のような雰囲気。うっかりすれば、ゴミ袋か何かに間違えてしまいそうなほど、イチョウの木の根元のそれはみすぼらしいものだった。
 寝ているわけではないだろう。そう思ってその猫の体に触れる。体温は分からない。だが腹の辺りに触れてもそこが上下することはなかった。起こすつもりで体をたたいても、一切の身動きはない。やはり、死んでいるようだ。
 その猫を見つめる。全体的には汚らしい茶色。黒っぽい線が葉脈のように額から背にかけてはしっている。手足やしっぽにも、まるで蔦が絡み付いているかのような黒い模様。手足の先としっぽの先、耳の端だけは少しだけ白っぽくなっている。体はかなり大きいようで、頭からお尻までで40cm程はありそうだ。その体の肉付きもそれなりによく、あばら骨が浮いてかわいそうなほどガリガリではないし、ぶくぶく太っておかしいほどのデブ猫ではなかった。顔は穏やかで、目は細く釣り気味に閉じられ、口はぐっと上に持ち上げたように閉じられている。見れば見るほど、眠っているだけのような猫だった。
 わたしはその猫の隣に座ることにした。本当はイチョウの木にもたれたいのだが、木の周りだけは土になっている。雨上がりの土の上に座るのはさすがに嫌だった。石を払いのけ、まだら模様のアスファルトの上に腰掛ける。スカートの向こう側から冷たい温度がお尻をなで上げる。膝を抱えて座り込み、猫の方を見る。どうしたの、と見上げていてくれればいいのに、その猫はそこに死んだままだった。しばらく見つめてから、視線をあたりに戻した。
 そこには、いつもと違う景色があった。わたしはわずかに感嘆の息を漏らす。
 しばらく呆然として辺りを見回してから気がつく。なるほど視線が低くなったせいか。街路樹たちも大きくそびえ、並んでいる家や店も大きく反り立っているように見えた。色、影が濃くなったような景色で、押しつぶされそうな色合いが輝いていた。アスファルトの道も、はじまりが手元にあるため、遠くの地面の見え方も違う。ゆるやかに続いてくアスファルトが、壮大にすら見えてきた。振り返れば、大きな大きな車がものすごい速さで通り抜けていく。手を伸ばせばタイヤに触れられそうな距離で、座ったわたしの2倍はあるだろうという車がびゅんびゅんと駆け抜けていく。ハンドルが少しこちらに向いただけでわたしは、わたしと猫は、ひとたまりもないのだろう。向こう側の歩道は立っているときよりも遠く見えるが、向こう側に建つ建物や街路樹は立っているときと大して変わらない様に見えた。
 空を見上げる。イチョウの木が視界の半分を埋め尽くし、その半分をどんよりと白い雲が覆っている。イチョウの木の遠近感のせいか、立っている時よりも空が遠ざかったような気がした。寂れた城壁のような厚ぼったい雲。先ほどよりも、空が明るくなっている。もう、晴れてしまうのだ。
 視線を猫に戻す。横たわり、1ミリたりとも動かない猫。猫の種類は分からないが、おそらく雑種だろう。首輪はつけていないようだ、と首元を撫でる。捨てられたのか、野良猫なのか。この辺りに住んでいたのだろうか。町にはいくつか、猫の集まる場所があるものだ。わたしも友人に聞いたことがある。彼女は2箇所ほど知っていた。どこだったかは忘れてしまったが、近い場所だった。この猫も、そこに集まっていたのだろうか。突然いなくなると、この猫の友達は心配したりするだろうか。猫の社会のことは、よくわからない。そう考えてから、首輪をつけていない飼い猫、首輪の取れてしまった飼い猫なのかもしれない、とも思った。
 ふと見てみると、向かい側の歩道を歩く人影が見えた。わたしと同じ学校の制服を着た男子生徒だ。1人で、大またに歩いていく。鞄を肩にかけ、まっすぐに道の先を見つめていた。こちらには気がつきもしない。知らない人物だったが、同学年だろうか他学年だろうか。わたしはいつもかなり早い時間に登校している為、登校中に他の生徒と会うことがない。今日も早い時間だったため、登校する人影を見たことはかなりの驚きだった。それとも、猫の傍に座り込んでからかなりの時間がたったのだろうか。時計は持っていないし、近くに時計はない。時間は分からないが、そんなに座り込んではないだろうと1人でうなずいた。それに、みなが登校する時間になればもっと多くの人間がここを通るはずだ。
 猫の体をそっと撫でた。どこかパサパサした、汚らしいような毛並み。少し撫でてから手を見ると、抜けた毛が手に何本もくっついていた。手を打ち合わせてはらう。そういえば、野良猫は多くの病気を持っているらしい。だから触ってはいけない、とよく言う。この猫も、多くの病気を持っているのだろうか。死んだなら、それは減るだろうか、増えるだろうか。わたしは膝を抱える。
 猫が飼いたい。再度そう思って空を見上げる。猫を飼っている友人の家に遊びに行ければ、それでいい。考えるが、友人の間で猫を飼っているという話を聞いたことはなかった。言っていないだけで飼っているのかもしれない。そうも思ったが、たしか友人の1人が飼い犬の話をしたことがあり、そのとき他にはだれも何も飼っていないという話になった。友達は猫を飼っていない。猫を飼っている人の家に遊びに行く、という案も断念だ。
 この猫は、どうなるのだろう。視線を落として考える。多分、明日見てみれば猫の死骸はなくなっているだろう。近所の人が埋葬するのだろうか。保健所の人が火葬するのだろうか。カラスが食べてしまうのだろうか。不意に、つぶれたハトの体が頭の中で蘇った。何年も前の、小学生の頃の映像だ。通学路から少し離れたところで、車に轢かれたらしいハトがつぶれていた。文字通り、つぶれていた。怖くも気持ち悪くもあまり思わなかったが、何故かその映像だけは頭の中に残っている。あのハトは、だれが片付けたのだろう。狭い道で、おそらく2度も3度も轢かれてしまったハト。誰が片付けたのだろう。この猫は、誰が片付けるのだろう。
 ふと、猫の写真を思い出す。そういえば、近くの席に座る男子生徒が何かの折に写真を見せてくれたことがあった。猫の写真。目を見開いてこちらを向いている猫。ピントは後ろの畳や壁に合っており、猫の姿はややぼやけていた。猫を飼っているのだ、とあの時言っていた。フィルムが余っていたから、自分の家の猫を撮ったのだ、と。
 わたしは立ち上がり、スカートをはらった。小石が落ちるが、湿り気はとれない。軽くはらってから通学路を先に急いだ。彼の家なら知っている。だが仮にも異性だ、遊びに行かせてください、と言ったところで断られるに決まっている。彼の家に遊びに行くにはどうしたらいいか。簡単だ。恋人になればいい。
 彼の家なら知っている。少し先の道を折れ曲がったところだ。いつ登校するのかは分からないが、何せ誰よりも早いと思われる時間に出てきているのだから、待ち伏せなど容易だろう。待ち伏せて、一緒に登校させてもらおう。そうやって、少しずつ彼に近付いていけばいい。そして、恋人になればいい。そうすれば、彼の家に遊びに行くことができる。
 にやと笑いながら、わたしは早足で彼の来る道までを急ぐ。彼の猫は、なんという名前だろう。そう考えていると、死んでいた猫の映像が蘇った。茶色の汚らしい色に、黒い蔦のような線が絡み付いていた猫。それにもう興味はない。
 わたしは振り返らずに通学路を急いだ。















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