小さなびいだま
小さな小さなわたし達
揺れる揺れる、揺れるびいだま

  小さき玉の


 しとしとと雨が降り続いている。
 夏から秋に移り変わるころの、天気雨だった。先ほどまでの晴れがじっと静かに続いているのに、雨が降っていた。小さな玉がいくつもいくつも落ちて来る。
 カーテンが半分だけ閉まったリビング。電気はつけていない。終わるといってもまだ夏だ。日も高く、部屋の中は薄暗かった。カーテンの間から鮮やかな庭の緑が輝きを放っているのが見える。そのきらめきが増して見えるのは、雨粒の化粧のためだ。
 一切の物音を立てない家の、その一部となったままリビングに突っ立っている男がいた。すっと尖った針のような、それでいて薄い和紙のような希薄な雰囲気の男だった。だがどこか、観葉植物のような無害で、いつのまにか忘れ去られてしまうような空気もまとっている。壁や棚、机椅子と同じようにじっと、手を触れなければいつまでもそこにいるだろうというように、その男はそこにいた。背は扉に向けたまま、半分だけ見える窓の向こうを見ている。
 ――夜空が見える。
 彼は心の中で小さく呟く。爽やかな緑色と、ブロック塀の灰色が見える、切り取られた世界。そちらをみて、彼は満足そうに心の中で言う。
 ――夜空が見える。
 屋根や道路、草木を打つ玉の音が聞こえている。
 ――夜空だ。妙に明るい紺色ではない。曇っているときの白っぽい色でもない。ただの、黒。絵の具の色とは違った、ただの、夜空の黒。一面に広がるそれは、その先の宇宙を感じさせない。ぺらりと一枚の紙で、覆われているようだ。
 窓の外、ブロック塀の向こう側を車が通り過ぎていった。荒々しい駆動音はすぐに、さんざめく雨粒の音の間に消えていった。
 ――むっと暑い夜だ。風のない夜。時折、腕の上を這うような風のみがそよぐ。星が空に留められているように、木々もじっと動かない。汗が吹くのなかで流れるのを感じながら、夜空を見上げる。
 男は目を伏せて、足元に視線を落とした。どことなく寂しげな、だが懐かしそうな笑みを浮かべる。
「そういえば、姉さんは夏が嫌いだった」
 砂浜をなぜるように、右足をすっと滑らせる。フローリングの床は、夏の暑さに負けて生温い。彼はまた、雨の降り続ける窓の向こう側に目をやった。白い光の矢が、次から次へと庭へ刺さりに来る。きらきらと輝くそれらは、幼い子供達のはしゃぎ声を立てているようだった。
 ――星空。そう言い換えてもいいかもしれない。光る粒があちらこちらに。しかしそれは、あまりに少なく見える。あ、と声を立てて指を差して、あれもこれもと指を差して、それからやっと、自分が限りない星々に囲まれて、包まれていることに気がつくのだ。
 窓の外、灰色のブロックの上に、紺色の傘が飛び出した。上下に揺れながら、右から左へと進んでいく。ゆっくりと、その傘の持ち主など見えず、ただ傘が道を行くのが、見えた。その紺色の傘がカーテンの内側へ消えると、上塗りするかのように左から右へ、車が過ぎていった。
 男は足で軽く床を蹴った。かすかな音が鈍く鳴るが、それは雨音と交じって、本当に鳴ったのかはわからなかった。光る雨粒の糸を見つめながら、男は床面を足先でそっと撫でる。強く踏みつけて足を軽くひねる。きゅっ、という音が雨粒の合唱の上を飛んで、確かに鳴った。
 ――そして、月だ。ただ丸く、ただ黄色い月。不思議に輪郭がはっきりとして、まったくぼやけていない月。色がついているわけでも、何かが反射しているわけでもないというのに、それがあるだけで、夜空は少しだけ色鮮やかになる。しっとりと冷たい黒の夜が、濡れたようにつやめく。
「姉さんは、月が好きだった」
 男は声に出して言う。窓は締め切られている。風が入ってくるはずはないのに、カーテンがわずかに揺れた。男は、蒸し暑い夜の、腕をゆっくりと這う気持ちの悪い風を、感じた気がした。
 半分だけ開いたカーテンの間から、雨粒に濡れた庭とブロック塀が覗いている。向かい側の家屋も見えて、その向こうには薄っぺらな水色が群れを成していた。
「夜空が見える」
「貴方は、そればかり言うのね」
 長いため息を練り混ぜたような、それでも曇りのない声だった。その声はすうっと部屋の中に満ちた。壁や棚、机椅子、そして男に、ゆっくりと潤いが宿ったようだった。男は振り向いて、ぱあっと幼いような笑顔を見せた。
「姉さん!」
「姉さんと呼ばないでと、何度言ったらわかるの?」
「ああ、ごめんよ」
 両腕を抱えるように組んで、扉の枠にもたれている女。濃淡のはっきりした、明確な線を持った女性だ。黒髪は艶やかで、その立ち姿さえも何気ないようでいて美しい。さぞかし強い力を発揮して周りの人を思うようにもてあそんだであろう、とそういう風に思わせた。そういった過去の輝かしい物が、ただその面影が残っているというだけに色あせてしまったようだった。今は、重い疲労が色濃くまとわりついている。確固としていただろう線は、落ち着かずにゆらゆらとしているようだった。
「わたしは貴方の姉ではありたくないのよ」
「ああ、そうだね、僕もだよ」
「違うわ」
 女は体を震わせて、充血した目をぎらつかせた。
「わたしはただ『姉でありたくない』だけよ。貴方とは違う。貴方とは違うの。わたしは貴方の姉ではありたくないの。それだけよ、それ以上では、決してないの」
 首を振って体をすくめながら、彼女は口早に言った。怯えるようなその姿を見て、男はそっと両腕を広げた。優しげな笑みで持って、女を見ている。
「そうだね、姉さん。ああ、ごめんよ。ああ、ああ、そんなに怖がらないでくれ」
「ああ、どうしたら姉でなくなれるのかしら……!」
 両腕を抱え、血走った目を見開きながら、女は首を振る。男は考えるようにして、視線をゆっくり女の体に這わせた。女は自分の立つ、敷居の上を見つめており、男と極力目を合わせないようにしているようだった。
「一緒になれば、いいと思うんだ」
「そんな、そんなの、何よ、気持ち悪い。わけがわからないわ」
「なら、一緒に死のうか?」
 困った風に、しかし何気なく言った男の言葉だったが、女は顔を上げた。ひどく冷めた、軽蔑しきった表情を乗せていた。
「そうね、それがいいかもしれないわ」
「そうして、次の時には、血のつながりがない存在に生まれ変わろう」
「ええ、血のつながりのない、何のつながりもない、絶対に出会うことのない存在になりましょう。ああ、そうね、どちらかが生まれ変わらなければいいのかもしれない」
 心底くだらない、というように吐き捨てる。男は女が冗談でも言ったかのようにくすくすと笑った。横目でそれを見ると、女は頭を抱えて首を大きく振った。
「ああ、やめて、もうやめて。ああ、嫌だ、どうして貴方の姉なんかに生まれてしまったのかしら」
「僕も、何故姉さんと、貴女と血がつながっているのかと、嘆かずにはいられないよ」
「違うって言っているのが分からないの? わたしは、貴女の姉でありたくないの。それ以上では決してないのよっ?」
「わかっている、わかっているよ」
 うっすらと笑みを浮かべた男は、優しげな足取りで一歩女のほうへ進んだ。女はそれを見るや否や矢のごとく駆け出した。一瞬だけ男の視界から消える。男が彼女の姿を追う前に、雨音を刈り取っているかのような音が聞こえた。どこか悲鳴に似た音だ。男は咄嗟に手で目元を覆った。光が眩しかったのだ。突然の強い光に目が戸惑っている。ようやく慣れてきてから、彼女がカーテンを開けたのだと気がつく。
 全開になったカーテンの向こう側には、明るく輝く庭があった。ブロック塀も、じっとりと濡れている。数々の、似ているようで違う数多の緑色が身を寄せ合っていた。地や塀に寄り添うようにして、雨粒を受けて光る緑色。濡れて色濃くなったブロック塀と、向こう側にある家屋、そして薄っぺらな水色の空。雨の墜落の様は、光を密やかに反射して美しい。
「夜空が」
「外を見なさいっ、外を見るのよっ」
「星空が」
「どうしてそればかり言うの?」
「姉さん」
「違う! 違う違う違う! わたしは、わたしは貴女の姉なんかになりたくなかったっ……!」
「姉さん」
 女はしがみつくように、カーテンに両腕をまとわりつかせる。身を縮めながら、嗚咽を漏らす。ぎっとうなったカーテンが、ぱちんと爆ぜるような音を立てて外れた。そのまま女はその場にくずおれる。
「姉さん、」
 男は一歩、窓の方へと足をすすめた。きらきらと白色に輝く窓の外。朝露にぬれたように優しげで、青々と茂る緑色。ぺたりとした水色の空が窓の端には見え、あまり付き合いのない人々の住んでいる家が見える。それから、じっとりと濡れた濃い灰色のブロック塀。それらは少しも動くことなく、開け放たれた窓の向こう側で鎮座していた。しかしそれらは弾んでいるように、走り回っているようにみえた。ちいさな、飴のような雨粒が、いくつもいくつも落ちてきているせいだ。輝きを幾重にもまといながら、雨粒が回っている。矢のように草木に刺さる。それらが美しいことを、それら自身は知らず、知っているのはそれを見ている人のみだった。
 窓の外の、輝かしき世界。
「夜空が、見えるよ」
 男は目を伏せて、希薄な柔らかい笑みを浮かべていた。















テーマ「ゆらめき」


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