冷たい空気に満たされた、高校の教室。低い日が緩慢に明かりを投げかける。まだほの暗い、爽やかな朝の底で、少女たちは二人、額を寄せ合っている。
「ねえ、もし明日世界がなくなっちゃうとしたら、どうする?」
「なくなる、って何?」
「今から一日後に、世界は消えてしまいます、って言われるの。そうしたら、どうする?」
「消えるってどういう風に?」
「ううん、そうだな。5秒くらいかけて、光に包まれるの、全部」
「そりゃあまた、神秘的だね」
「そう? でも、世界が存在していること自体、神秘的じゃない?」

  人恋しく


 くつくつとシチューが音を立てる。少し火が強いだろうか。手を伸ばし、火加減を弱める。鍋の中の音が小さくなる。
 そろそろ、娘が帰ってくる時間だ。わたしはそう思い立ちながら、鍋の底を引っ掻くようにして白いシチューをかき回す。振り向いて時計を見上げる。まだ少し早いか。だが、駅にはついた頃だろう。冬至も近くなって、日が落ちるのが早い。
 暗い道を娘が帰ってくる、と思うと途端に不安になる。何故だろう。冬と夏で同じ時刻だとしても、夏はそう心配にはならないが冬は心配になる。夜が来るのが早いからだ。隣のコンロにフライパンを乗せ、火をつける。世の母達が子達の帰りが夜になるのを厭うのは、怪しい人物が徘徊する可能性が高いから、とかそういうわけではないと思う。
「ご飯まだー?」
「もうちょっと待って。お姉ちゃんが帰ってきてから」
「はーい。今日、シチュー?」
 息子、弟がキッチンの向こうを通り過ぎる。留まるわけではないから、皆普段、廊下は暗いままで進んでしまう。どこかの部屋から漏れる明かりを頼りに、わずかに見える壁を伝いながら。
 幼い頃は、誰でも夜が怖かった。電気をつけたまま眠ったり、暗闇の中なんども隣に眠る親兄弟に話しかけたものだ。成長し、いつの間にか夜も怖くなくなったが、だが時折暗闇は怖い。怖いと認識してしまうと、指先が震える。そういう時は、廊下の電気をつけて歩く。皆、夜が怖いし、暗闇が怖いのだ。何かが潜んでいることを本能的に知っているのか、それとも何が潜んでいるかも知れないからなのか。理由はわからないが、昔から暗闇を避けて人々は暮らしてきたように思う。そんな暗中に愛しい子供がいるのだから、それは心配するのが当然である。
「おかーさん、まだー?」
「まだだって。お姉ちゃん帰ってきてないでしょ」
 ハムステーキをフライパンの上に落とす。景気のいい音がわっと飛び出した。軽く振り向くと、息子が不満そうな顔をして立っていた。早く食事にしたいのだろう。姉が帰ってくるのを心待ちにしているようだ。フライパンを揺すり、時計を見上げた。まだ、娘は帰ってこない。窓の外は既に真っ暗で、できれば家の外へは出たくないような夜だった。早く帰ってこい。心の中で、呼びかけるように呟く。
 明るくなった朝に出かけ、そして彼女は帰ってくる。夜が明けて出て行き、夜になる前に帰宅する。時々夜の端に捕まってしまうが、それでも無事に帰ってくる。毎日のことだが、それはとても、嬉しいことだ。
 おかえり、という言葉が喉まで出掛かっている。今日も夜に襲われずに、無事に帰って来い。
 わたしの愛しい娘よ。



 苦しくて、息ができない。それは走っているせいじゃない。でももしかすると、この逃走が拍車をかけている可能性は、ある。
 大口を開けて呼吸をしていると、喉がひからびて苦しくなる。でも、鼻で吸える息だけでは焼け石に水。だから、喉がからからに乾いて咳き込んでも、口を開けて呼吸をする。苦しい、痛い。足を止めた。数歩だけ余分に歩いて、立ち止まる。
 息が苦しい。どうしようもないくらいに、呼吸ができなくなる。
 アスファルトの上に自分の足が見えた。黒色のコインローファー。紺色の靴下と、チェックのスカート。現実としてはそれらが視界にあるのだけれど、わたしの目の前に見えているものは違った。放課後、まだ日が暮れ始めてすらいない時間のはずであるのに、わたしはこの前の休み時間を反芻している。
「あーあ、怖い怖い。ねえ、そう思わない?」
 おどけたような口調と、肩をすくめる仕草。でもその呆れた表情には少し悲しみが混じっている。深読みだろうか。そうは思わない。どこか罪悪感のようなものに満ちた教室の中、誰も喋っていないはずなのにひそひそという声が聞こえているような気がした。その上に重なるようにはっきりと、彼の声は響く。
「ま、大変なのはわかるんだけどね」
 ちょっとしたクラス内の不和。それに口出しできるほどの意見がなく、彼に話しかけられただけで胸の奥がぎぎと痛み、彼の視線がこちらに向いているだけで呼吸ができなくなり、ごまかそうとして、変な顔をしていただろう。笑われると、そう思ったのだが授業が始まって彼はわたしから意識をそらした。それでもわたしは、まだ全身に思い苦痛を感じていたように思う。
 車が通り過ぎていく。目の前に、灰色のアスファルトが鎮座している。
 あの時も、呼吸ができなくなった。思い出すだけで、今も息が通らなくなる。
 友達は恋をしていると、楽しいといった。毎日が彩り溢れ、悲しみも増えるが喜びも大いに増えるのだと。
 そんなのは嘘だ。
 車が続けて通り過ぎていく。風が頬を叩く。
 頭の中いっぱいに、彼の顔が浮かんだ。彼の言葉や仕草、こちらを見た視線から友達とじゃれあう姿が、めいっぱい頭の中で渦を巻く。浅く呼吸をする。息が荒いのは、走ったせいだろうか。でも、苦しいのは彼のことを考えているせいだと思う。
 苦しい。息ができない。
 好きだ。
 喉に乾いた空気が張り付く。咳き込み、涙で滲んだ視界に彼の顔が浮かぶ。ああ、苦しい。
 ああ、愛しき人。



 真っ白な煙突から、真っ白な煙が吹き出している。
 俺は信号の傍らに、自転車にもたれてそれを見上げていた。日は高く、ぽかぽかとした陽気だ。極普通の家の向こう側にひょいと突き出した煙突。長いことここを大学への通学路に使っているが、あそこが何の工場なのかはいまだに知らない。
 ふーっと長く息を吐き出す。煙突から吐き出る煙を見ていると、煙草を思い出して真似がしたくなる。まだ学生だし、特に機会もなかったので、煙草を吸ったことはない。面倒だから、多分この先も吸わないだろう。でも、真似だけ、したくなる。父さんは、たまに吸っていたし。
 人は死んだらどこへ行くのか。綺麗な答えの一つに、空があると思う。
 星になるとよく言ったもんだし、死体は数グラム軽くなると聞いたこともある。意識みたいなものが、宙へ溶けてしまったということなのだろう。霧散して、もしかすると辺りにいるのかもしれないけれど、なんとなく、空ということになる。その方が、綺麗だからだ。死人の意識が空気と一緒に人の体へ吸い込まれたり吐かれたりしているのだと考えるよりも、それはその方が良い。
 つまり、俺の父もあの煙の向こう、青空に溶けているのかもしれない。
 ひき逃げ事故。死んだのは、もう2ヶ月も前になる。皆、そのショックから立ち直ってきているが、母も祖父母も姉も妹も、まだ時々表情を曇らせることがある。多分俺もそうなのだろう。姉も妹も父をよく慕い、よく笑っていた。母には好きになって添うと決めた人であるし、祖父母にとっては愛息子だ。皆、それぞれに欠けて、困っている。
 俺は、最後に父の顔を見たのがいつのことなのか、覚えていない。こちらが朝早く家を出て夜遅く家へ帰るから、あまり顔を合わせないのだ。顔を合わせたのを思い出せないのだから、言葉を交わしたのも記憶にない。とても、寂しいと思う。だが、それはどこか表面的だった。あまり会わなかった父だから、いまだに、しばらく会えていないだけ、というような気がしてしまう。
「なんで」
 葬儀の時、誰かがそう言った。なんで、なんで父は死んだのか。
 真っ白な煙は、ゆっくりと、形を変えて移動していく。見ていると気が変になりそうだった。動いているのに、じれったくて、もどかしくて、動いてないように見えて、腹が立ってくる。
 何故父は死んだのだろう。うまく理解することができずに、もどかしい。突然いなくなったといわれてわけがわからなくて、腹立たしい。空というより、死人は煙に似ている。やがて煙は空に溶けてしまう。それもまた、そっくりだ。
 空に、煙が流れていく。まだ生きていて欲しかった。心の底からそう思うよ。
 ねえ、父さん。




 冷たい空気に満たされた、高校の教室。2人の少女のみがそこに居た。教室の外、校舎の外、学校の外では、ゆっくりと喧騒が起き上がろうとしている頃だ。
 緩慢な明かりが、低い日から窓を通ってくる。
「ねえ、もし明日世界がなくなっちゃうとしたら、どうする?」
「なくなる、って何?」
 2人の少女は額をつきあわせる。秘め事が、幼い口元からゆっくりと語られる。
「今から一日後に、世界は消えてしまいます、って言われるの。そうしたら、どうする?」
「うーん、どうしようかなあ」
 顎に指を当てて、天井を見上げる。蛍光灯に明かりは点っておらず、天井は薄い影に覆われていた。床にもまだ薄暗いもやがかかっているが、机だけは朝日で照り輝いている。
「迷うなあ。漫画の続きとか気になるし」
「あ、わかる。ドラマとかも気になるんだよね」
「あとは、文化祭とか楽しみだったんだけど、1人でできることじゃないし」
 違うよね、と小さく呟く。なにをするかだよね。眉をひそめて視線を泳がせるが、やがて降参するように肩をすくめた。
「わかんない。そういうこと延々と考えて、後悔しながらさよならかも」
「確かに、咄嗟に何しよう、って考えられないよね」
「あんたは?」
「聞いてくれるの待ってた」
 廊下を複数の生徒が走りぬけていく。
「わたしはね、告白する」
「……誰に?」
 少女は席を立ち、迷わぬ足取りで、整然と並んだ机の間を行く。真ん中あたりで立ち止まり、1つの机を指差した。にやっと笑っている。
「え? そうだったの?」
「そうだったんだよ。告白する。ぶち当たってやる」
 その机を半ば睨みながら、少女は戻ってくる。へえ、と相手の少女は机に肘をついたまま息を漏らす。
「知らなかったな。ていうか、告白してどうするの?」
「……なにが?」
「イエスならそのままラブラブだけどさ、ノーだったらどうすんの」
「考えてない」
「ああ、そう」
「とりあえず、言いたいんだよね。抱えたまま終わりたくはない。どうせわたしはあいつのこと考えながらさよならするからさ、どうせなら、はっきりさせてから、あいつのこと考えて終わりたいんだ」
 そう、と少女は微笑む。立ったままの少女も力強く微笑んで、例え今日滅ぶとしても今からぶつかりにいくのだろう、と思わせた。
 おはよう、と言いながらクラスメイトが教室に入ってきた。ぱたぱたと足音が廊下を通り過ぎていき、また2人、教室へと入ってくる。
 窓枠の上へ消えようとする日が、少女たちの輪郭を照らす。
 1人の少女は、自分は好いた男を思いながら世界の終わりを迎えるのだと言った。
 1人の少女は、自分は誰を思って世界の終わりを迎えるのか考えている。
 学び舎が一日を始めようとしている。少女達は密やかに、世界の終わりという者に、想いを馳せている。















競作小説企画Crown様 第七回テーマ「世界の終わり」 投稿


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