小さな世界の訪問者


 雨が降り始めたので、今日の予定は中止なのだとわかった。
 楽しいことを待っているときに雨が降り始めたらその予定は潰れる。昔からそうだった。予定を心待ちにしているときに雨が降り始めたら、その予定は中止になる。そうやって、雨はいくつものわたしの予定を潰してきた。
 楽しい一日を邪魔する雨は、朝目を覚まして降っている雨とは違う。どうでもいい予定を控えているときに降り出す雨とも違う。そっと忍び寄り楽しげに跳ねて遊ぶ子供達とは違う。つんと済ましたお姉さんみたいに、今日の予定は中止だから、と冷たく突き放しにくる。わたしたちは、抵抗したくなってもそのきれいなお姉さんに嫌われるのが怖くて、首を縦に振るしかないのだ。
 雨足は一秒を追うごとに強さを増していく。窓の外が薄暗い色に変わってゆくにつれ、電気をつけていない部屋の中も柔らかな影に覆われていく。先ほどまでの安穏とした空気が、剣呑とした空気に変わっていった。突然の雨粒の群れに、軒を連ねるみんなの家が苛立っているように見えた。そう、雨はいつも集団でやってくる。幼い子供達や、浮き足立った若者達、颯爽と行く大人達。雨はいつも、同じ色の集まりでやってくる。
 数多の屋根を叩くぱらぱらというかわいらしい彼らの足音が、やがて凶暴な地団太に変わった。屋根を力任せに殴りつける雨粒は、まるで予定が中止になったことを怒っているかのようだった。ここは小さなアパートだから、その怒りの行軍に耐えられるのか、わたしは少し心配になった。力強いリズムが、窓の外、天井の向こう側、何かを隔てた向こう側で激しくなっていく。足下でひんやりとした風が渦を巻いた。
 どうしよう。急に暇になってしまった。
 高校時代の友人たちとちょっとランチを、という予定だった。半年に一度くらい企画される催しだが、今回中止になった分がまたすぐに行われるのかはわからない。雨が降り出さなければきっとみんな都合がいいままにランチを一緒にできただろう。だが、雨が降り出してしまった。多分、誰かの都合が悪くなった。だから、再び友人たちに会うのがいつになるのかは、まったくわからなくなってしまった。しかしわたしはそれを残念と思うよりも、この後の暇な休日の過ごし方のほうに戸惑っていた。
 とりあえず昼食の時間だ。だが、今からお昼の支度をする気にはなれず、かといって食べに行くにも買いに行くにも、外には雨が降っているのだった。雨が嫌いなわけではないが買ったものが濡れるのは嫌だ。だから、外へ出るのは気が引けた。
 一食くらい食べなくてもいいか、と思い始めた頃にチャイムが鳴った。小さなアパートにはインターホンもカメラもない。のそりと立ち上がって玄関へ向かう。目と鼻ほどの距離であるというのに、部屋よりも玄関の方が空気がひんやりしていた。
 もう一度チャイムが鳴った。そんなに待たせていないと思うのに、と首をひねりながら、鍵を開けて扉を開ける。
「もう、返事くらいしてよ。ていうか暗い。電気、電気」
 彼女はいつもはっきりした色の服を着ている。赤いTシャツにはたくさんの絵の具がぶちまけられたような図柄。黄色のカーディガンをあわせていて、真っ白のショートパンツを吐いていた。Tシャツの青や緑や橙の絵の具が白いショートパンツに落ちたら嫌だな、と思った。
「ああ、あなただったのね」
「そうだよ。他に誰か訪ねてくる人なんていたっけ?」
「そうね、あなただけだわ」
 でしょ、と得意げに笑いながら彼女は白いスニーカーを手を使わずに脱いだ。紐が桃色と灰色をしていて、こっそりと気取っていた。左右の手に持った大きな鞄とビニール袋の重さに傾ぎながら黄色の玄関マットに足を乗せる。左右の違うカラータイツ。鞄をかけた腕で、彼女は壁についたスイッチをぱちんと鳴らす。蛍光灯に灯りが灯る。ぽんと何かが爆発したように改めて目に入る、赤いTシャツとぶちまけられた絵の具。この部屋にはない、鮮烈な色。
 少しつり気味の大きな目。鼻が高くて、口が大きい。明確に表された顔のパーツは、少し派手に存在を主張している。顔がちっちゃい、とは思わないけど、きれいなラインをしている。身長があればモデルさんになれると、わたしはいつも思っている。今は、身長が低くてもファッションモデルをやるのだったっけ。そんな、少し一般人と違うように見える彼女は、化粧をするとオカメインコになるから嫌だ、といつも言う。オカメインコが嫌いなのか、彼女は今日もノーメイクだ。
「白い大きな犬がいるとこあるでしょ? あそこで降り出してさ、濡れちゃった。タオル貸してくれない?」
 わたしは無言のままタオルをひっぱりだしてくる。薄い水色で、白い花が散らしてあるものだった。彼女は鞄とビニール袋を置いて、受け取ったタオルで黄色のカーディガンの肩や背をぬぐう。
「降り出すのがあと3分遅かったら濡れなくて済んだのに」
 彼女はぷりぷりと怒っている。真っ直ぐに長いまつげがまっすぐにこっちを向いていた。わたしは特に理由もなくくすくすと笑ってしまって、彼女の怒りに少しの油を注いだ。
 買ってきた荷物をマキちゃんが冷蔵庫にしまっている間にメールが来て、やっぱり予定はなくなった。

 マキちゃんは隣の部屋に住む美大生だ。
 いつもはっきりした色の服を着ていて、よく怒ったり、笑ったり、泣いたりするエネルギッシュな子である。常に叫び続ける電車なんてものがあったらまさにそれだ。ねじを巻かないとずっと止まったままでいるわたしとは土台からまったく違っているため、比べることすら難しい。根底から違ったものなんて、わたしの周りにもいままでになかったものだからとても愉快だ。そのせいか、わたしはマキちゃんと一緒にいることが好きだった。マキちゃんがどう思っているのかは知らないが、嫌われてはいないのだと思う。彼女は度々遊びに来てご飯を作ってはわたしのねじを巻きに来る。
「はい、どうぞ」
 ことんと置かれたスープ皿。ほっこりと湯気が立ち上っている。マキちゃんは二つのスープ皿をおいて、自分も椅子を引いて座った。対面に座って、わたしはマキちゃんが手を合わせるのを待って、一緒にいただきますを言った。
 スープを飲むといつも飲んでいるコンソメスープの素の味がした。それからベーコンの風味。風味を出しているベーコンを一つつまんで口に入れる。
「サチさんは」
「なあに?」
「やっぱり、麺類とか食べる時に、最初に具を食べるんだね」
「そうなの?」
「うん。サチさんはね、ラーメンとかおうどんとかのとき、メンマとかかまぼこを先に食べるよ」
 マキちゃんは、わたしの知らないことをよく知っている。そうなんだ、と頷きながらフォークをくるくる回す。スパゲティがフォークの周りに集まってくる。
「これは、スープスパゲティというものなの?」
「さあ? わかんない。適当に作ったから」
 スパゲティを堅めに茹でておいて、コンソメスープに入れただけの料理だ。そこへ炒めたベーコンとたまねぎをいれて、冷凍の枝豆を浮かべた料理。彼女は枝豆を入れるのが好きだ。冷凍の枝豆をお湯に浸して戻して、指で押して何粒も出す。そしてそれを、シチューとか、煮込みハンバーグとか、ポテトサラダとか、スープスパゲティに乗っける。最後に乗っけるだけで、その料理は全部、似たような雰囲気になる。多分、マキちゃんはそれが好きなんだろう。
 部屋の外を、透明な雫の群れが通り過ぎていく。わたしたちはゆっくりと湯気の立つスープスパゲティを食べる。
「これ、おいしい」
「そう? じゃあまた作るね。今度はスパゲティじゃないのでやりたいな」
「晩御飯のおかずになりそうだね。マカロニとか」
「えー、マカロニ? それは変だよ。ペンネか、フジッリとかファルファッレでしょ。ミックスのとかキャラクタ物でもいいけどな」
「ペンネがいいな」
「そう? あ、サチさん結構堅めが好きだしね」
「ペンネが一番、お洒落だから。ミックスにも入ってないし」
 お洒落かなあ、とマキちゃんは笑った。きれいに並んだ歯を見せて、遠くから見ても笑っているとわかるほどの笑顔でマキちゃんは笑う。わたしは近くで見てもわかるかどうかというくらいの笑顔で笑って、お洒落じゃないスパゲティをフォークでくるくる集める。枝豆の群れが流れに沿って回り始める。しばらく眺めてからスパゲティを口に入れて、一緒に枝豆も口に入れた。
 食べ終わると、マキちゃんは待っていたようにお皿を片付けてくれた。わたしの家なのに、マキちゃんは洗い物を始める。いつも申し訳ないと思うのだけどマキちゃんは当たり前のように洗い物をしてくれる。ありがとう、と言っても、当たり前のように、うん、と言うだけだ。多分、放っておくのが許せないのだろう。ガラスのぶつかる音が聞こえて、わたしが放っておいたグラスも一緒に洗ってくれているのがわかった。
 手際よく片付けて、二つの湯飲みを持って戻ってくる。ありがとう、と言うとやっぱり、うん、と言われた。自分の分の湯のみを置くと、マキちゃんはまた洗い場の方へ行ってしまった。どうしたのかな、と視線で追うと、マキちゃんは冷蔵庫を開けている。それは先ほどマキちゃんが色々と増やした冷蔵庫だ。買ってきたものを全部つっこんでいったが、多分半分くらいは後で自分の部屋に持って帰るだろう。でも後の半分は置いておいて、わたしかマキちゃんがこの部屋で料理を作るための材料になる。
 お尻で冷蔵庫の扉を閉める彼女の手にはプラスチックのケースが掲げられていた。二本の小さなフォークを引き出しから引っ張り出して戻ってくる。ミカンとかキウイとかパインの乗った生クリームのケーキが二つ、中で揺れていた。
「お皿はなくていいよね」
 わたしが頷くとマキちゃんは自分の分のフォークをくわえて、一つはわたしの前に置いた。ケースを開けて片方を自分の前に置く。ケーキにくっついている黒色の丸い紙がお皿代わりだ。ケースの上に乗せたままのケーキをこちらに押しやる。わたしはマキちゃんの真似をしたくなって、ケーキをケースからおろした。黒色の丸い紙がお皿代わりなのだった。マキちゃんはきょとんとした顔をする。
「それ、お皿代わりにすればよかったのに」
「ああ、そうだね。まあいいや」
 お揃いにしたくてこうしたのだというのが何故だか恥ずかしくて、わたしは気がつかないふりをする。
「嘘つき」
 口をいの形にして、マキちゃんは笑う。わたしがお揃いにしたくてケーキをおろしたことなんて、きっとケーキを買おうと決めた頃くらいから気がついていたのだろう。側面にへばりついた黒い紙をはがして、フォークを入れる。
「何かのお祝い?」
「ううん。おいしそうだったから」
 真っ白の生クリームに、味はほとんどない。ただ、もったりとした感触が口の中でふわふわするだけだ。それはわたしにとっては、おいしいということだった。スポンジもあんまり味がなかったけど、おいしいと思った。マキちゃんと二人で黙々と食べる。ご飯を食べる時は喋るけど、おやつを食べる時はなぜだかいつも、二人とも無言だった。緑茶をすすりながら、フルーツショートケーキを食べる。この、変に所帯染みた組み合わせが、わたしは好きだ。
 窓の外の雨は弱まっていた。耳を澄まさないと音も聞こえない。厚い雨雲も移動したようで、日差しを通すほどのうすっぺらい雲が空を流れていた。窓の外の明るさは、のんびりとお昼まで眠っていたときの空気に似ている。目を覚ましたときにカーテン越しに感じられる、甘い香りの群れ、こそばゆい日差し。
「マキちゃん、おでかけしよっか」
「え? いいけど、お家大好きなサチさんが、珍しい」
「うん。わたしもそう思う」
 わたしが笑って言うと、マキちゃんは首を傾げて肩をすくめた。でも不機嫌そうな顔はしていないので、多分一緒に出かけてくれるのだろう。目鼻立ちのはっきりした彼女の顔を見つめる。わたしは何か、多分ふわふわしたものが集まってできているのだと思う。例えば、雫の集まった雨みたいに。でもマキちゃんは、個だ。たったひとつきりで、すっくと立っている。キャンバスの上の絵の具みたいに、べたり、と。
「マキちゃん。大好きだよ」
「突然どうしたの。なんだか、今日のサチさん、変」
 けらけらとマキちゃんは笑った。わたしも合わせるように笑った。二人分の笑い声が、小さなわたしの部屋に満ちた。
 そろそろ、雨粒の集団は遠のいていた。目を凝らすとまだ降っているが、一見しただけではよくわからない程の雨足になっている。窓の外はだいぶ明るくなっていて、そこらに群れを成す家々の屋根はきらきらと強く輝いていた。
 雨が引き上げていくので、今日の予定はとても楽しいだろう。出かける前に雨が上がったら楽しい予定の始まりなのだと、今日、見つけた。















競作小説企画Crown様 第十三回テーマ「群青」 投稿


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