一瞬にして世界は変質した。
そのことがわかって、わたしは少しだけ絶望する。
失くし物は、いつまで経っても見つからなかった。何の変哲もない消しゴムだった。百円程度で買ってきた、真っ白な消しゴム。ようやく頭が丸くなってきた、筆箱の中に入っていたたった一つの消しゴム。気がついたら、無くなっていた。
他にも消しゴムならいくらでもあった。使いにくいがデザインの凝ったものから、かわいらしくもあるがちゃんと使えるようなものまで。幼い頃の、誕生日だとかクリスマスだとかのプレゼントの欠片が、机の引き出しの奥にいくらでもあるはずだった。それでも使い慣れた消しゴムを、延々と探し続けていた。
気がついて顔を上げると外はすでに夕暮れだった。お昼を過ぎて、漫画を読んで。学校のレポートの下書きを少しだけやっておくことにした頃から探している。ずいぶんと長い時間、部屋の中をうろついていたらしい。
窓の外は左から右へ、青色からオレンジ色へと色を変えていた。変化の途中であるのにぴたりと静止していて、見てしまったことにヒヤリとするような、あちらも見られてしまったことにヒヤリとしているような雰囲気があった。
不思議と、空を見ていると、もう夏ではなく秋なのだと実感する。しかし、季節を知らないままに空を見ても、そうは思わないだろう。夏から秋へと移り変わることを知って、そしてわたしは、秋の夕空を見ている。
消しゴムの代わりに、棚の一番下の菓子箱から出てきたのは、自転車の鍵だった。友達が車を出してくれるせいもあってもうあまり乗らなくなってしまったが、一月に一度程度は使うため、予備の鍵を使っていた。失くしたのがいつだったかも、もう覚えていない。今は机の上においてある。少し埃にまみれた、ドーナツのキーホルダー。もう予備の方を使っているから、こっちの鍵は使わないのかもしれない。わからないまま、机の上で鍵は夕日を反射している。
電気をつけようとして、やめた。
夕日はどこかに姿を隠し、オレンジ色の灯りをあちこちに放っている。その欠片が、薄暗いわたしの部屋にも忍び込んでいた。灯りの届かないところでは、夕暮れの冷たい空気がひそやかに芽を出している。
最後に使ったのはいつだっただろう。手の内からこぼれた消しゴムに思いを馳せる。こんなに心を傾けているのだから、応えて出てきてくればいいのに、と半ば憤慨する。昨夜だったろうか。昨日、大学から疲れて帰ってきて。学校に出す書類を書くために筆箱からボールペンを出した記憶はある。だがシャープペンシルは使っていないし、消しゴムも使っていないはずだった。そのときに消しゴムの姿を見た記憶はない。しかし、あったような気もする。曖昧だった。
部屋を見渡す。机、棚、ベッド、押入れ、窓。それから、床に散乱したいくつかの鞄。全てひっくり返したが、小さな赤い消しゴムは出てこなかった。そこにはなかったから、出てこなかったのだろう。もしそこにあったのなら、出てきたはずだから。机の引き出しを開けてみて、古いノート類とにらめっこする。もうそこも再三探した。ないのはわかりきっている。だが、一度閉めて、目を瞑って念をどこかへ送ってからもう一度開ける。あるはずだったのに、やはりなかった。部屋の中で探していない場所はないはずだ。となると、部屋の中にはないのかもしれない。
窓を開ける。宵の風が音もなく体を包みこみ、心地よさに思わず身を震わす。
先ほどよりも青色は侵食を増し、オレンジ色が後退していた。青色は段々と濃さを強くして、悠々と東の空を覆っている。青とオレンジ、相対する二色の間に、届かないと知りつつも手を伸ばす。指先はわたしのすぐ目の前で空回りする。泳いでいた手のひらがやがて、空に向かって応援するようにふらふらと揺れた。オレンジ色を応援したのか、青色を応援したのかはさだかではない。
握り締めて部屋の中に戻した手の中には冷たい空気が閉じ込められている。探しているものではなくて、これが消しゴムであったならいいのにと念じる。上下に振るとやがて、空気は人肌と同じ温度になって、部屋の中に溶けてしまった。
消しゴムはいつまで経っても見つからなかった。空の色が、すっかり深い青色に染まってしまってもなお電気をつけずに、わたしはぼんやりとしている。
ふーっと意味もなく長い息をつくと、耳の奥から、誰かの吐息が聞こえた気がした。だがそれは、二度と聞こえなかった。
風は、冷たさを増している。窓を閉めて、カーテンも閉める。
違う消しゴムを使おうと決めた。良い消しゴムから悪い消しゴムまで、机の奥にいくらでもしまってある。まだたくさん使えるはずの消しゴムだった。だけれど、失くしてしまった。だから、別の消しゴムを使おう。
ありがとう。
どこにあるのだかもわからない、失った消しゴムに心の中で語りかける。
今までありがとう。
明確なお別れだ。失ってしまったのだから、もう、許すしかなかった。受け入れるしかなかった。
消しゴムのことなんて、すぐに忘れてしまうだろう。そう予感しながら、わたしはクローゼットに手をかける。
窓の外はすっかり暗く、クローゼットの中の服は全て黒色をしていた。
目を瞑ると、一筋の涙が流れたような気がした。
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