今日が彼女の誕生日であると気がついたのは、0時17分のことだった。机の上においてあるデジタル時計には今日の日付と今の時刻、気温が記されている。23という数字が0に変わっているのを見て、レポートに熱中している間に日付を跨いでしまったのだと気がついて少し苛立った。日付を越える前に終わらせて眠るつもりだったのに。歯噛みしながらデジタル時計の、変わってしまった日付をにらんだ。つい30分前まで違う数字だったためか、その日付表示には何故だか違和感があるのだった。時々日付を越えてしまって、23が0になった時計を見るたびに、それはいつも思う。気温は11,5度。ストーブががんばっているが、ひんやりと冷たい空気に体は覆われていた。
カレンダーを見ても思い出さなかった。多分、去年も思い出さなかった。それであるというのに、デジタル時計に表示された日付を見た瞬間に、あ、と思い出してしまったのだ。
脳裏に彼女の笑顔が浮かぶ。心のどこかで黒い影が蠢いた。
祝う言葉は、全く思い浮かばなかった。0時、今日になった瞬間に、彼女はどれだけのメールを受け取っただろう。誕生日になった瞬間にメールを送ってくれる人というのはどこにでもいるもので、こんなわたしの誕生日にも3人からのメールがあった。0時を越えた瞬間だなんて、そんなのはどうでもよくて、ばかげた話だ。そこにあるたった1秒の境界は、デジタル時計の表示が違和感を携えて変わる、というそれだけでしかない。しかしそう思っていても嬉しいのは事実で、眠ろうとしながら度々メールを見直したりした気もする。
今日一日、祝福されるだろう彼女を思うと、心の中でゆっくりと蛇が首をもたげるのがはっきりとわかる。古い話なのに。
もう5年近く会っていない。彼女とは中学の同級生で、中学時代には親友といっても過言ではなかったように思う。それから5年が経って、高校はどこへ行ったのか知っていたが、今何をしているのかは全く知らなかった。大学へ行っているのだろうか。駅や町で姿を見かけたことも無い。そんなことはないのかもしれない、と思いなおした。すれ違ったことが何度もあるのかもしれない。駅のホームの向かい側、目の前にいたことだってあるのかもしれない。気がつきたくて興味が無くて、だから、気がつかなかっただけで。中学生から大学生、あるいは専門学生、社会人になった女の子なんていうのは、軒並み雰囲気を変えているものであるから、目に入っても気がつかないことはありうると思う。手を伸ばして鏡を覗き込む。伸びた前髪を分けている、今の自分。昔はこうではなかった。眉の辺りで切りそろえていた。眉が見えるとかっこ悪くて、目にかかると鬱陶しい。ちょうどいい長さでいられるのは、本当に短い間だけだった。自分で切って失敗しながら、あの頃はみんな前髪を気にしていた。伸びっぱなしの前髪を引っ張る。切るつもりは無かった。
手紙でも書こう。
受験に忙しくなって、春休みになって、毎日顔を合わせるようなことはなくなった。そのまま別々の高校へ入学した。それから携帯電話を持ったものだから、連絡先の交換をしなかった。だから、付き合いが廃れたのだろう。携帯電話のアドレス帳に彼女の名前がなかったから、だから、なんの付き合いもなくなったのだろう。携帯電話を手にしてしまうと、それ以外の連絡手段がわからなくなる。だから、わたしたちは、互いに連絡先を知らない、状態だったのだ。でも、そんなことはない。何度も遊びに行った彼女の家の住所も知っている。何度もかけた電話番号だって空で言える。
当時は、親友である彼女のことが嫌いだったように思う。なんでもできて、誰にでも好かれて、色々なものが集まってくるすぐ隣の彼女に、嫉妬していた。だから今、誕生日を祝福しようと思えない。それを悲しいとは思わない。しかし、疑問に思った。
わたしは変わったし、彼女も変わった。そして、環境も変わった。
鎌首をもたげた蛇の頭には埃が積もっている。
手紙でも書こうと思った。祝福する気にはなれない。しかし、彼女の誕生日を思い出した、というそれが、何か意味を持っているように思えたのだ。思い出したのに、わたしは彼女が嫌いだ。もしこのままだとすると、これから先、また思い出すことがあっても、きっと、わたしは彼女が嫌いなのだろう。それは鬱陶しく思えた。
決まっている未来に抵抗したくなった。
机の上のレポートを片付ける。まだ途中だが、提出期限はまだ先だ。手紙に提出期限はないが、思いついた今、書きたかった。小学生の時に買ってもらった学習机の、引き出しを開ける。小学生の時は使っていただろう机も、中学に入ってからはほとんど使わなかったように思う。引き出しの中身も、ずっと昔のままだ。多分、彼女との交換日記なんかも、どこかに入っているだろう。
星型がちりばめられた水色のレターセットを発掘した。水色の便箋に白抜きの星を見ていると、中学の頃に手紙を書いた記憶が蘇った。彼女にも書いたような気がする。あの頃はみんな、交換日記が大好きだった。中学生になって、そんなの子供っぽいよ、と言いながらも、本当はやりたくて仕方が無かったように思う。そして、交換日記ほど子供っぽくないのが、手紙だった。誰が始めたのかは知らないが、わたしたちは競うように手紙を書いて、好き勝手に押し付けあった。そこに何を書いたのか、覚えていなかった。そのときに彼女や他のクラスメイトにもらった手紙は、引き出しの中に埋まっているのだろうか。彼女は、わたしが出した手紙を、まだ持っているのだろうか。
便箋を2枚と封筒を取り出して目の前に置く。ボールペンを手にして、視線を泳がせる。レポートよりも難しそうだ、と思った。それでも書きたいと思った。
忘れていた記憶を思い出したからには何か意味があるのだと思いたかった。
もしこの手紙に返事が来て、そして、彼女のことを嫌いと思わなくなったら。
それって、未来が変わった、ってことなのではないだろうか。
レポートよりも難しくて、ずっと、愉快なことのように思えた。少し考えてから、かじかむ指で手紙を書き出した。
戻る