太陽の重さ、そよ風の心地よさ
通学路の一角に正方形の空き地がある。つい半年ほど前まで民家があったのだが、建物は壊され土地は売りに出されていた。そこにどんな人が住んでいたのか知らないし、どんな理由でそこが空き地になったのかも知らない。
降り注ぐ暑い光に体が火照り、背中に流れる汗が気持ち悪い。色鮮やかな夏が、辺りには満ちている。そろそろ夏休みになろうという、暑さの茂る時期。視界に飛び込んでくる熱量に目がくらみそうになるが、支えるようにそよ風がやってきて、どうにか立っていられる。
町のプールは解禁になったのだったか、なるのだったか、と考えながら学校への道を歩いていた折、わたしはふと、足を止めた。半年ほど前に変わった通学路の景色の一部が、また変わっていたからだ。夏の、重いほどの鮮やかさとは違う、頭の軽そうな鮮やかさだった。まるで夢の中に迷い込んだかのような、馬鹿みたいな光景。蜃気楼ってその辺に見えるものだっただろうか、と考えていると、わき腹をつーっと汗が流れていった。この気持ち悪さは、夢ではない。
半年ほど前まで民家のあった空き地の真ん中には、かわいらしいテントがあった。赤とオレンジと黄色。それはまるで絵本の中に描かれたサーカスのテントのようだった。
「なにあれ」
「なんだろうね」
驚いた声が、わたしの後ろを通り過ぎていく。二人の女の子の声は聞き覚えのないものであった。だから、同級生ではないだろう。そう考えてから、聞き覚えがあるような気もして、それから、同級生でも喋ったことのない人もいることを思い出した。通り過ぎた二人の女の子が見たことのある子であるのか、見たことのない子であるのか、少し気にはなったが、それよりも、殺風景な田舎町の一角にぽっと現れたテントから、わたしは目を離したくなかった。
風がそよぐ。テントがふわりと音もなく揺れて、銀色の骨組みが見えた。多分、アウトドア用に市販されているテントなのだろう。ひらりと舞い上がって見えた内側は、布の色が溶け合っていた。太陽の光がぎゅうっと布の色を搾り出している。風が通り抜けないから、中はきっと熱気が篭っているだろう。全身に落ちる太陽の光の重さを確かに感じながら、あの中はもっと重いのだろうと、そう思った。熱気の重さと、色を押し出した光の重さ。
あの中には、異世界が作られている。
そう思うと、あの中に入りたくてたまらなくなった。内側と外側に満ちた暑さを吸い込んだ布をくぐって、異世界へ行きたい。こことは違うどこかに、つながっている気がして止まらない。
わたしは、止めた足を再び動かして、学校へ向かった。
本当は異世界につながっていないのだということを諭されるくらいなら、例え本当なのだとしても異世界への扉を叩く勇気は、わたしにはないのだった。
白色の太陽が、少しずつ黄色味を帯びていく。冬だったら既に薄暗い時間だったが、夏の太陽が赤味が差すにはまだ時間が早い。夏至を過ぎてなお、日の入りの時間は遠ざかっていく。いつになったら太陽は沈むのか、まだ日中と変わらないたくさんの光を振りまいている。
「もしかして、なんて声をかけていいかわからない、とか思ってる?」
授業が終わってしばらくすれば、さっさと帰宅する生徒は既に見当たらない。前を見ても後ろを向いても同じ方向に帰る生徒、というのが気持ち悪くて、わたしは少し間を置いてから学校を出てきた。最近はいつもそうだ。みんな一斉に学校を出るものだから、少しすればもう、誰もいない。
「思ってない」
そんな、誰もいないはずの通学路、わたしの少し前を、飄々とした背中が歩いていた。なんと声をかけようか迷ってじっと、少し汗の染みた白いシャツを見つめていたら、不意にその背中は立ち止まってこちらを振り向いた。暑さと手を取って踊っているような上機嫌な笑み。わたしが歩みを止めずにその隣まで来ると、彼は並んで歩き出した。
「背中にじりじりと視線感じて、穴が開きそうだった」
「あっそう、ごめんなさい」
ああそうか、こいつは視線を感じるタイプの人間だったか、と自分の不躾な視線を思い出して恥ずかしくなる。わたしは視線を感じるタイプの人間ではない。だがそれでも、隣に並んだ人間の顔くらいは視界の端で見えている。
「何よ、びっくりした顔で人の顔見て」
「や。素直に謝るから」
「だから、何」
「だから、びっくりした顔で人の顔見て、たんじゃない?」
「あっそう」
自分から聞いておきながら、冷たいあしらい。自覚はしながらも、直す気にはならなかった。取り繕う気にもならない。わたしがそれをどうでもいいと思っているのと同じくらいに、隣の彼もどうでもいいと思っているようだった。
空気の重さを感じないくらいに軽い足取り。目を閉じても鼻歌が聞こえてきそうな楽しげな匂い。匂いというのは比喩だが、あながち比喩でもないような気がした。夏の空気を吸っていると、段々と自分が重くなっていく気がする。熱が、エネルギが、体の中に侵入するせいだ。だが、彼の隣にいると、そよ風が通るかのように、すーっと軽い気分になれる。時々こうして風を通さないと、いつかオーバーヒートで倒れてしまうのかもしれない。
夕日と呼ぶにはまだ高い位置。だが確かに西へ落ちようとしている太陽へ背を向けて、わたしたちは並んで歩く。辺りには人の姿はない。太陽の光を内に通すまいと並ぶ民家ばかりが目に写るもの。少し遠くの国道から、行きかう車の騒音が漏れ聞こえてくる。その中には蝉の鳴き声も混じっていて、わたしは車道を一緒に走る蝉の姿を想像し、ばかばかしくなってやめた。
「人の背中凝視してたんだから、何か言いたいことがあるんじゃないの?」
しばらくの間、ぼんやりとただ歩いていただけだったが、困ったように口を開いたのは彼のほうだった。
「まあ、そうだけど」
煮え切らない返事。じゃあ言ってよ、と軽い口調。どこまでも軽いなあ、と感心する。自分の体が、彼に誘われて軽くなる気がした。
「……あんたは、何か言いたいこと、ないの?」
「ないよ」
言いたいことならいくらでもある。そのどれから手をつけてよいかわからず、誤魔化すように聞いた言葉はあっさり一蹴される。まるで鼻先でぴしゃりと扉を閉められたようで、立ちくらみそうになる。だって、と続けられた言葉で、瞬きをした目の前に扉がないことに気がついた。拒絶されたと思ったのは、勘違いだったらしい。一瞬でどす黒くなった吐息を吐き出すと、彼の空気がそれを全部浄化して、それからわたしの中まで浄化した。
「俺の言いたいことは、全部、あそこに、あるじゃん」
あごで示した先はいくらか前に民家が壊された空き地で、サーカスが来ている空き地だった。むき出しの土が見えているが、テントはまだ見えない。
言いたいことならいくらでもある。やっぱりあんたなんだ、とか。覚えていたんだ、とか。それでも行くつもりなんだろう、とか。わたしのことをどう思ってくれているんだ、とか。何を見ているんだ、とか。何を考えているんだ、とか。やっぱりあれは、わたしに宛てたメッセージだったんだ。とか。
「わかんないよ、あんなんじゃ」
もう撤去されただろうか。たった一人の男の子が、たった一人の女の子のために作ったメッセージ。ばかみたいな、いたずら。
「だろうな。俺にもわかんないもん」
当たり前のように言ってくれるとぼけた顔に、咎めるような視線を送る。彼はふっと頬を綻ばせて、わたしの鋭い視線を絡めとる。
「どうしてそんなに、軽く生きていられるの」
嘲るように口にする。羨望を少し混ぜて、泣き出しそうになりながら、馬鹿にしてやる。
そんな器用な感情が言葉に乗せられたのかはわからないが、彼は驚いたように目を丸くした。そして何か言おうと口を開きかけたが、わたしは押さえ込むように言葉を続けた。たとえわたしが言葉を続けなかったとしても、ただ口を金魚のように開閉するだけで、きっと彼は何も言わなかっただろう。
「なんでそんなに楽しそうなの。なんで人を笑顔にできるの。どこでそんな魅力手に入れてきたの。どうしてみんなアンタのことが大好きなの。どうしてそんなに、優しい空気を吐き出せるの」
自分が何を言いたいのかさっぱりわからない。ボールペンでずっとぐるぐる円を描いているようにぐちゃぐちゃな感情。だというのに、隣に並んだ彼の周りには、ピエロが踊っているのだった。ピエロだとか、象だとか、ライオンが列を成して、大玉や一輪車やフラフープやお手玉を持ってぐるぐると、回っている。
ああ、ぐるぐるしてるのは同じなんだ、と思った。訳がわかんないのは、同じなんだ。
なんでだろうねえ、と穏やかに呟いた吐息には、音符が混じっているように見えた。目がおかしくなってしまったのだろうか。空き地には場違いな明るい色のテントがまだあて、天辺ではためく旗に初めて気がつく。
なんでなんだろ、と再び呟いた声で、ピエロがお手玉を始める。一つだった玉が二つ、三つ、四つと増えて、いくつかわからない程たくさんの玉を、ピエロは宙に放り投げる。
サーカスが本当に来ていたらいいのに、とそう思った。ピエロが本当にいたらいいのに。彼の頭の上に乗っていたらいいのに。そうしたら、わたしのぐちゃぐちゃしたボールペンの落書きで、大玉乗りをやってほしいのに。
現実と幻想の区別がつかなくなりそうだ。
そんなのは嘘だと、知っている。重い熱量を浴びて、わたしは夏の中にいる。そしてただ、現実逃避をしているだけだ。勝手に、空中を踊るピエロを想像して、ただその幻想に浸っているだけ。
ぐちゃぐちゃしたものが渦巻いて歩けなくなりそうだというのに、ただ隣に彼がいるだけで、心は和らぐ。
汗が背中を伝う。暑さが全身にのしかかって気だるいというのに、そよ風が吹く。
そよ風が吹いて、それが、すごく心地よい。
「どっこも行かないでよ。あんたがいなくなったら、わたしはどうしたらいいの」
涙をこらえて搾り出した声も、そよ風があっという間に攫っていってしまった。
競作小説企画Crown様 第十八回テーマ「サーカス」 非投稿
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