気になるものがある。どうしても気になることがある。
 小学校の同級生だったT君だとか、中学校の登校時にいつもすれ違った雑種三匹とおじさんだとか、駅のホームの割れ目にに必ず毎年咲くたんぽぽだとか、A先生のほくろだとか、Uさんの恋の悩みだとか。わたしを煩わすものはいくらでもあって、心のコルクボードに留められたメモ書きの数は膨大だ。つまらないことから、少し重要なことまで、様々なメモ用紙が張られている。
 その中でも最近特にきらびやかな光を放っているのは、日付だった。今日の日付に一を足した日。
 どうして気になるかといえば、それがなんとなあく嫌な感じのものだからで、できれば避けたいものだからである。しかし、絶対に嫌だ、とあんまり強く否定するもんだからいっそ強固に貼付されて、はがれなくなってしまった。嫌だ嫌だといい続けたらいつのまにかそれは一つだけ装飾をつけていた。
 あ、日が変わってしまう。
 すっかり日も暮れた一人暮らしの居間で、ふと見上げた時計に教えられた。短針と長針が、あといくばくかを経ると重なってしまう。短針が一周する間に十二回起きる事象だが、その針が真上を向くのは一日に二度しかない。テレビ番組が終わりを告げて、コマーシャルに入る。いよいよ今日が終わってしまう。日が変わる。
 気がつくとテレビを消していた。壁掛け時計の電池を抜いていた。
 机の上の、埃にまみれた時計を見つめる。秒針の作動音が小さいのを気に入って買ってきた時計だが、その秒針はぴたりと音を立てずに止まっている。日付の変わる直前。直前、というのも居心地が悪く、二十分ほど戻すことにした。
 携帯電話の電源も落とした。どうせ誰からもメールは来ないだろうが、用心に越したことはない上、待ち受け画面には常に日付の表示が鎮座している。明日の日付を、知らせてほしくない。
 テレビを消して静まり返った部屋には冷蔵庫のぶうんという低い音が響いていた。冷蔵庫は時間を知らせない。そのことにほっとしながらも、わたしはソファから動かなかった。わたしの体躯と同じように空気も停滞していて、ほとんど動いていないようだった。カーテンの向こう側の、外の空気の方がよほど流麗に波打っている。
 寝るべきだろうか。しかし目は冴えている、布団に入ってもしばらく眠れないだろう。
 日付が変わってほしくない、と思って、周りにある日付や時刻を知らせるものを止めてみた。その割にわたしは、日が変わるのをじっと待っていた。
 何か飲もう、冷蔵庫に確かお茶が入っているはずだから。そう思い立ったのだが、ソファと一体化したように、わたしは動かなかった。日付の変わる瞬間にも、こうしていたかった。しかしわたしは、その瞬間がいつやってくるのかを知る術はないし、その瞬間が来ないことを望んでいる。
 色々な考えが混ざりあって、矛盾で絡まりあっていた。どうしよう。そう考えながらも動けなくて、おそらくずっと、どうしよう、と思いながら何もしないでいるのだろうと思った。その間に日付が変わって、しかしその日付を目にせぬまま床につくことになるのだろう。そう思っていた。
 日付の変わる瞬間は、予想外の形で訪れた。
 からから、というベランダの戸が開く音。しゃーっ、というカーテンレールを金具が滑る音。ぱんっ、というクラッカーの音。それから、
「誕生日おめでとう」
 桜木の笑顔と声。
 無音に浸っていたわたしにとって、その衝撃は甚大だった。心臓が冗談じゃないというくらいの猛スピードで鼓動を打ち、一気に駆け上がった恐怖が全身にまとわりついている。
 息を止めて放心しているわたしがおかしくてか、桜木はけらけらと笑った。そよ風とざわめきの入り込む戸を閉めると、また部屋の空気が停滞したかのように思われたが、桜木がゆっくり歩いたため、ふわりと渦を巻いた。
「驚いた?」
「ころされるかと思った」
 にやにやと上機嫌な笑みを浮かべる桜木に、咄嗟の恐怖で強張らせた頬をゆっくりと解く。出した声は半ば震えていた。体丸ごとが太鼓で、今まさにどんどんと叩かれているかのようだった。眩暈がしそうなほどの体の中の渋滞。
「いやね。お前のことだから、今日の誕生日を嫌だ嫌だと待ち構えていると思って。無視しようとしていると思って。だから絶対に祝ってやろうと思ったんだよね、しかも日付を越えた瞬間に」
「ありがとう」
「どういたしまして」
 皮肉だということはわかっているはずだったが、桜木は満足そうに頷いた。ローテーブルの向かい側に腰をおろしてあぐらをかく。どうぞ、と白くて四角い箱がテーブルの上に置かれた。貼られたシールの賞味期限は、まさにわたしの誕生日であった。近くのケーキ屋のロゴが入っている。
「お祝いに買ってきたけど、食べる?」
「え、今から?」
「じゃ、またあとでいいか」
 一体どんなサイズのものを買ってきたのかは知らないが、一人で食べるサイズではなさそうなことは確かだった。誰と食べろというのだろう。一人寂しく食え、というのだろうか。それとも、そんな寂しいわたしのために桜木は一緒に食べてくれるというのだろうか。そんなのはこっちから願い下げてやる。そういう旨を伝えると、桜木は拗ねたような顔をした。
「なんだよ。俺じゃだめかよ」
「いいと思う?」
「そうでなきゃ買ってこないよ」
 誰かと食べて、という考えは最初からなかったようだ。そんな仲のいい「誰か」がわたしにいないことを、わたしも桜木もよく知っている。しいていうならば桜木が「誰か」なのだが、隣人がくれたケーキがあったとしてもわたしは桜木を呼ぶことはしないだろう。
「大人になっちゃいましたねえ」
 桜木が意地悪に笑う。わたしは顔を背けた。
「俺から目をそらしても、現実から目をそらしても、その事実は変わんないよ」
 二十年前、一体自分はどこで生まれたのだろう。聞いたことがあったはずだが、覚えていない。市民病院や自宅ではなく、どこかの小さな病院だったはずだ。何かの折にちらっと聞いたかもしれない。だが名前もついていないような頃の話に興味はない。例え名前がついていたとしても、自分の知らない自分の姿に興味はなかった。
「大人って」
 何、と続けたはずだったが、空気は震えなかった。問いかけというよりは鼻歌のように言ったから、口の動きも小さく、読唇術に長けた人でも理解できなかったかもしれない。
「そうねえ。何だと思う?」
 ああ、聞こえていたのか、と思ったが、「何」くらい聞こえていようといまいとあまり変わらない文章だったと気がつく。吸い込んだ息が、胸の浅いところに溜まった。
「ちゃんと裁かれる。年金はらう。税金はらう。保護者になれる。親の同意がなくても結婚できる」
「社会的だね、ずいぶん」
「他になにがあるの? 民主的、資本的、共産的とか?」
「いや。精神的に、かな」
 小学生のときのことだ。わたしの通っていた学校には縦割りグループというものがあって、一年生から六年生まで一人ずつで構成された六人のグループがあった。掃除当番をそのグループで行う期間があったり、遠足もそのグループででかけた。一年生のとき、六年生がとても大きく見えた。六年生になったとき、当時の六年生もこの大きさだったのか、と思うと違和感があった。違う、こんなんじゃない。六年生はもっと大きかった。その六年生のときに見上げていた両親や先生達。高校を出る頃にはとっくにわたしの方が大きくて、やはり違和感を感じた。違う、こんなんじゃない。大人たちはもっと、大きかった。
 見ていたものと身についたものの差はあまりに激しくて、わたしは混乱してしまう。
 大人になったらしい。
 そんなの嘘だ。だって大人って、こんなんじゃない。
「ねえ」
 桜木はぐるぐると考え込む時間をわたしに与えてくれていた。もう終わりらしい。憂鬱な表情で顔を上げる。
「なに」
「俺らが大人になるのに、かかる時間ってどれだけか知ってる?」
「二十年じゃないの。現在の日本的には」
「いや、違うね」
 よほど自分の論旨が気に入っているらしい。最近見た中で一番の上機嫌な笑みだった。桜木は立ち上がると、フォークある? と聞いた。ケーキが食べたいらしい。台所を指差す。一番上の引き出し。お箸もフォークもスプーンも、しゃもじもおたまも泡だて器もその中。
 諒解、と呟いた桜木は軽快に台所へ入っていった。赤い靴下で立てる足音は、何かの楽器を叩いているかのように綺麗に響いた。性格は足音に出る、と思っている人ならば彼に惚れてしまうかもしれない。そのくらい、美しい足音のように思えた。桜木が引き出しを開けると、中身ががちゃりと騒々しい音を立てた。フォークはすぐに見つかったらしく、また賑やかな音を立てるとこちらに戻ってきた。
「本当に今から食べるの?」
 懐疑的に尋ねたわたしに、桜木は無言で微笑んだ。ローテーブルの向こう側に戻るつもりはないようだった。真っ直ぐこちらに向かってくる。ソファに沈んだ上体から見上げる桜木は随分大きく見えた。
 肩を掴まれて、ソファに背中から転がされる。この、背中が沈み込むときの感じが好きで、このソファに決めたのだった。押し倒されたわたしの背中と頭を、ソファは優しく受け止めてくれる。それから、桜木の掌と、多分膝もソファが受け止めていた。
「【大人】にしてあげようか」
 桜木の持ってきたフォークが首筋に当てられた。線を引くように、その三本の先端がわたしの首筋を撫でた。跡が一秒も待たずに消えてしまうような優しいひっかきだった。フォークが、シャツを少しだけ引き下ろす。
「大人になる時間は、一時間くらいってこと?」
 自嘲交じりに笑う。桜木はわたしを見下ろしながら、愉快そうに微笑んでいる。
 フォークが、パスタを巻くように胸元をひっかいた。鎖骨を撫でたり、シャツの縁から少しだけ入りこんだりする。
「昨日と今日の変わり目には、一秒もない」
 ことさらにゆっくりと桜木は言った。フォークは首筋を検分している。継ぎ目を探しているようだった。
「一瞬だよ。〇時〇分〇秒になった瞬間と、その直前。二十三に五十九分五十九秒の、〇秒に限りなく近い瞬間から、〇秒になるまで。一瞬もないくらいの一瞬」
 桜木の膝が、わたしの足を割って入ってきた。お尻の辺りがソファに深く沈む。
「一瞬?」
「そう、一瞬」
「一瞬で、大人になれるの?」
「一瞬で、大人になるんだ」
「何が変わるの?」
 フォークが、継ぎ目をなぞるように、継ぎ目を作るように、首に横線を引いた。跡もつかぬほど優しく撫でていたのが、急に強くなって、多分赤い筋が出来た。この男はわたしをころすつもりなのだろうか。そういえば、最初に桜木が戸から入ってきたときに、そう思ったのだった。
 人が一瞬で、変わると思う?
 桜木は笑った。わたしも笑った。
 手を伸ばした桜木はフォークを机の上に置いた。そして温かい指先で首を撫でた。こそばゆい感覚に少し身を震わせる。
 ごめん、跡ついちゃった。
 いいよ。
 傷をなぞるように、桜木はわたしの首元に顔を埋めた。
「さくらぎい。わたしさあ。今日の誕生日がすっごい嫌だったの、はたちになると、なんか変わる気がしてさあ。わたしはそんなのやなのに、勝手に変わっちゃう気がしてさあ。だから無視しようと思ったんだよ。嫌いだから、考えないようにしようと思ったんだよ。だけどさあ、できなくてさあ。考えないように考えないように、って思ってんのに、思ってんのにっていうか思ってるから余計に、ずっとそのことばっか考えちゃってたんだ。ばかみたいだよねえ」
 さくらぎい。とわたしはもう一度呼んだ。返事をせずに首に顔を埋めたままの桜木の頭を、そっと撫でた。
 子供と大人の違いよりも、わたしと桜木の方がよっぽど違う。だって、何を考えているのか全然わからない。
 なにしてんの、さくらぎい。
 答える声はなくて、代わりにわたしのお腹の上に桜木の温かな掌が乗った。
 大人になるのにかかる時間が、二十年なのか一瞬なのか一時間なのかわからないまま、多分わたしは大人になった。















20110515 蒼色狂想曲 レミネ様へ 誕生日のお祝い

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