いずれ魔女が殺しに来る
「じゃあ、三万」
「三万かー」
太陽が熱いエネルギーを辺りに吐き散らし、人々が逃げ惑う、暑い夏だった。大学構内を歩く人影も皆、ノートで日差しを遮りながら歩いている。中庭の芝生は日光を浴びて青々と息づいており、生命の息吹がとくと感じられるが、その輝きは冷房の効いた中から見ていても暑苦しいものである。
そんな芝生の片隅にはベンチがいくつか並んでいる。そのうちの一つに、高い位置から槍のように降ってくる日差しをもろともしない、一人の男が腰掛けていた。携帯電話を片手に、にやにやと笑みを浮かべている。
「お前ん家にさ、取りに行くから。それでいいだろ?」
頼むよ、と見えない相手に向かって拝む。スピーカーから、んー、という人の声なのかノイズなのかわからない音が聞こえる。
「俺も貧乏だからあんま出せないのよ。そんくらいで勘弁してくんない?」
三万かー、と再び呟く声にどうにかと頼み込む。スピーカーからはまた人の声ともノイズとも判然としない音がする。男のこめかみを、汗がするりと流れ落ちた。灰色のTシャツの肩に真っ黒な丸い模様ができたが、男は素知らぬ顔で電話を続ける。
「誰か他にほしいって人でもいるわけ?」
「いや、それはいないけど。お前にしか言ってないし」
電話の相手は男と同じ学年の友人で、バイトに明け暮れる爽やかな青年だ。その爽やかな青年は、バイト代の全てをバイクにつぎ込んでおり、今まさに新しいバイクの購入を進めているところだった。何故二人が友人かというと男もバイク好きであるためで、青年がいらなくなるバイクを安値で買い取ろうという、交渉中なのであった。
わかった、という相手の声に心がきゅんと唸る。
「考えとくよ。また電話する」
承諾じゃないのか、と肩を落としながら男は電話を切った。
本当なら、相手も五万と言いたいところなのだろう。しかし男は週に数度だけしかバイトをしていないため、金銭的な余裕はあまりない。互いに分かっているからこその三万で、だがいまひとつ納得しかねるから、商談が成立しないのである。
男はふらりと立ち上がる。ポケットに携帯電話を滑り込ませれば、あとは手ぶらだった。交渉中とはいえ、バイクが安値で手に入る予定なのだ、その足取りは軽かった。シャーベットのような音を立てながら芝生を横断し、コンクリートの部分に立つと照り返しがとても強くなった。足元にうずまく熱気の量が、芝生とコンクリートの上では段違いであった。建物の中に入ると、さらに温度は段違いであった。
「あ」
入ってすぐのところには、テーブルと椅子がいくつも置いてあり、学生たちが溜まっていた。その中の一人と目が合って、男はその手招きに応じる。髪の色が随分と明るい金色で、人の髪の毛のような質感ではなく、綿のような手触りをしていそうな男であった。彼はレポート用紙を一枚と教科書を広げている。
「まじ、助けて」
話によると、このレポートを書きあげなければ留年が決定してしまうらしい。同じ高校の出身ではあるが、現在の所属学科は違う。レポートのテーマを聞いても、悩んでいる彼以上に理解できなかった。
「同じ学部の奴に頼めよ」
「うちの教授厳しい人でさー。手伝った奴は留年な、って言ってんの」
大の男の泣き出しそうな顔というのは余り見たくない。やれやれ、と肩をすくめながら目をそらす。ホールの隅の自動販売機の前で、一人の女性が財布を広げていた。
「本気かどうかはわかんないけどさー、それを聞いた上で頼めないじゃん、やっぱ」
「俺はいいのかよ」
「いや、あの教授にお前を留年させる権限ないから。学科が違えば問題ない」
「でも学科が違ったら、誰もわからんだろ」
「そうなんだよねー。まじでピンチ、俺」
女性はしばらく自動販売機と財布を交互に見つめていたが、財布を鞄に突っ込むと、足早にホールから出て行った。お金を持っていなかったのだろうか。小銭が足りなくて諦めただけなのか、たかだかが百数十円のジュースを買うお金も持ってなくて諦めざるを得なかったのか。少なくとも、一度はジュースをほしいと思って、それを諦めたらしいことは確かだった。
「学科違いじゃなくて、学校違いは?」
「そんな知り合いいねえよ。紹介しろよ」
「俺もそんな知り合いは知らん」
打ちのめされたように机に突っ伏す彼の頭に、じゃあ俺は帰るわ、と投げかける。くそっ、と毒づきながら頭を上げた彼は教科書にかじりついて、ぶつぶつと魔法の呪文を呟きだした。ひらひらと掌が揺れる。こちらを見ていないことを知りつつも男は手を振り返す。ジュースでも差し入れてやろうかと思ったが、買うのが面倒だったのでやめた。
ホールを通り過ぎて、天井の低い廊下を歩く。見知らぬ女の子が向かいから走ってきていた。今にも泣き出しそうな顔をしており、とてもじゃないが素敵な出会いにはなりそうもなかった。一体何が起きたのか、と考えながらもぶつからないように避ける。そこに男がいたことすら気がつかないほど何かに思考を奪われているようだった。何か大変なことがあったらしい。世の中には不幸な人がいるものだ。
廊下は、日差しが届かないためにじりじりと焼け付くような暑さはなかったが、建物や地面がまるごと熱された空気が漂い、それをはらう風も吹かないため、立っているだけでも汗が吹き出そうな温度であった。すれ違う人から皆、汗のにおいがする。あついあつい、とわめく声に混じって、蝉の叫び声が聞こえている。
壁に面したのでとりあえず扉をつけました、というような粗末な出入り口から再び外に出る。一瞬だけ風が頬をなでて、心を和ませてくれる。天高くからの日差しに皆うちのめされている中、男は涼しい顔でアスファルトの上を横断する。小さな門から大学を出ると、すぐのところにバス停がある。何人かの学生が小さな日陰に身を寄せ合ってバスを待っていた。男は時計を見る。そう時をおかずに、バスはやってきそうだった。
既に待合テントの日陰はいっぱいで、日差しは遮ることが出来ても人の発する熱気にあてられてしまいそうだった。テントからあぶれた数人と同様に、緑がわずかに作る日陰に身を寄せる。塀にもたれると、生き物のように暖かかった。
「元気出しなよー」
「大丈夫だって、ミカならいけるから」
いつから待っているのか、ベンチを占領した三人の女性に目をやる。真ん中の一人がうつむいており、そのしょげた背中を両脇から鼓舞していた。全員がTシャツにハーフ丈のジャージで、おそろいのように髪を二つにまとめ、首にはタオルをかけていた。そこだけバス停のベンチではなく、テニスコート脇のベンチなのだといわれても納得できそうだった。案外そのとおりなのかもしれない、と男は思う。彼女たちは何か荷物を持っている風ではないし、高校生ではないのだからそのままの格好で町を歩くとは思えない。何を悩んでいるのかは知らないが、暑い夏のバス停を、バスに乗らない人が占領しているのであればはた迷惑な話であった。しかも彼女たちは身を寄せ合っている。大丈夫だよ、と肩を抱いている様は見ているだけで暑苦しい。そばに立っていた眼鏡の男性が、嫌味ったらしく一瞥を投げやったのも、彼女たちは気が付いていないのだろう。
時計に目を落とす。あと数分でバスが来るはずだった。陽炎がさんざめくアスファルトの道を覗き込むが、バスの姿はまだ見えなかった。
代わりに目に入ったのは一組のカップルだった。仲良く手をつないでこちらに歩いてきている。その女性の方がどんよりと肩を落としていた。彼らもバス待ちだろうか。だとしたらもう日陰は満員であるが、どこで待つのだろう。そう思ったのだが、彼らは大学に用事があるようで、男の前を通り過ぎていった。ちょうど目の前で、女性がため息をついた。
「いずれ、魔女が殺しに来るか」
諦めたような物言いに、男性の方が励ますように何かを言った。一体全体どういう意味なのかは判然としなかったが、嬉しい話題ではなさそうなことは確かだった。
バス停のベンチの、真ん中の彼女がどうやら泣き出した。おやおや、と聞き耳を立てたところで携帯電話が鳴った。バイクの話だ。にやりと笑みが漏れたのを抑えて電話に出る。
「はいはい」
「今いい?」
「いいよ」
もし、ここから相手からの値上げ交渉が始まってしまうと、男にとっては嬉しくない展開である。わずかな緊張と、期待から胸が高鳴る。相手は一呼吸入れてから早口に言った。
「三万六千、ヘルメットつける。これで最終。どう?」
「ヘルメットって、シルバーに黒のラインが入ってる奴? 今の奴の、一個前に使ってた?」
「そう、それ」
「……うい、わかった。買う」
ヘルメットはどちらでもよかったのだが、あればそれで構わない。もし四万円と言われたら悩んだところだったが、許容範囲内だ。男は口がにやりと笑うのを抑えきれず、傍から見たら怪しいだろうと思いながらも、嬉しさから拳を握りしめた。電話の向こうでも、喜びの声が聞こえた。
「よっしゃ。さんきゅー」
「いやいやこちらこそ。いつ取りに行けばいい?」
「明後日ならバイトが休みなんだけど、お前は?」
「うん、大丈夫、暇。講義終わったら一緒にお前ん家行くわ」
陽炎の立つ道路の向こう側から、ぬうっとバスが現れた。バス停の顔ぶれが一様にそちらへ目を向けた。
いくつか打ち合わせをして、反対の耳でバスが近づくのを感じる。
「おっけ、さんきゅ。じゃまた明日、講義のときにな」
「あいよー。頼んだ。またな」
電話を切るタイミングと、バスが停車するのは同時だった。前と真ん中の扉が、ぷしゅうという音とともに開く。テニス部のような女性三人組に苛立っていた男が我一番に乗り込んでいく。男は入り口に群がる学生たちの一番後ろに並んだ。
なかなか進まない中、男はぼんやりとバスの前出口を見ていた。すると一人の女の子が降りてこようとして、降り損なった。アスファルトに足を置いた瞬間に、ひねってしまったのかそのまま転んでしまったのだった。うわっ、というような叫び声で乗り込もうとする学生の注目を浴びながら、肘から地面にぶつかる。男は一部始終をしかと見届けていた。
いったー、という彼女の声にかぶさるようにして後ろから数人の女の子が慌てて降りてくる。
痛いことと恥ずかしいことで、彼女は嫌な思いをしただろう。大丈夫、と駆け寄る友人になんと答えたのかは聞かぬまま、男はバスのステップに足をかけながら考える。
世の中には、不幸で色々なことが立ち行かなくてため息をつくような人が溢れている。例えば、いずれ魔女が殺しに来るような。しかし男は、三万六千円でバイクとヘルメットを手に入れたので、とてもいい気分だった。
発車します、とバスの運転手が陰気にアナウンスした。
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