いちごオレの似合う少女
一枚の硬貨を投入すると、ランプは一斉に点灯する。亜美は祝福されているような、なんとなくいい気分になりながらランプの一つを捕まえる。ぴっ、という自販機へ指令を与える音。ボタン一つを押しただけで、がちゃん、がこん、とロボットは従順に動いて亜美に缶コーヒーを差し出す。
「またお前は、似合わんものを飲むんだな」
しゃがみこんだままだったので、その人影はずいぶんと大きく見えた。あっ、と立ち上がっても、のぞき込んだ彼の頭と衝突することはない。亜美の身長は小学生の平均とあまり差がないのだが、目の前の彼は成人男性の平均身長を優に超えている。おなかでは少し低いけれど、もし胸に目があったら丁度同じ高さだろう。母の血は亜美に流れ、父の血は彼に流れたものらしい。平等にくれればいいのに、と亜美は思っていたが、そうすると母があんまりにもちっちゃくてかわいそうだから、二対ニでちょうどいいかもしれない、と最近は諦めている。
「あ。お兄ちゃん」
「小学生がブラックコーヒーなんて飲めるもんかいね」
「高校生だからね。楽勝だよ。ていうか家でも飲んでるじゃん」
亜美は高校一年生で、兄は二つ年上の三年生だ。身長差がずいぶんあるので並んでいると目立つのだが、面立ちも雰囲気も似ているので恋人に間違われることはあまりない。
「あれはマグカップがかわいいから許されるんだ」
「あー、くまだからね。缶は許されないの？」
真っ黒な缶コーヒーを顔の前に掲げる。身長だけでなく容貌も、小学生と言っても疑われない。子供と、大人の飲み物。兄は渋い顔で首を降った。
「許し難いね」
亜美と兄は並んで、階段の端に腰掛けた。あまり行儀の良いことではないが、みんながやっているのでみんなが気にしない。生活指導の先生でも、よくて目をやる程度だ。
亜美はプルタブをたてる。かこん、と音がして飲み口が影に落ちる。ブラックコーヒーを飲むとき亜美はいつも、軽いな、と思う。黒々としていていかにも重そうなのに、ブラックコーヒーは軽い。ざらざらとした感触を舌に残しながらも、あっという間に喉の奥に流れていく。その点、牛乳は重い。口に入れると舌に重みを感じて、少し息苦しい。喉に通すと通路がふさがってしまうのではないかという、重さがある。あんなにも真っ白なのに。だから亜美は好んでブラックコーヒーを飲む。軽い方が、楽だ。
「お兄ちゃんが飲むから、真似して飲むようになったんだけどなあ」
「俺はただ、牛乳を入れるのが面倒だっただけで、外ではブラックじゃないの飲むぞ」
そうなんだよねえ、と亜美は答える。よく友人の好きな物を勧められ、その友人以上にはまるという話は笑い話になっているが、亜美も似たような物である。少し違うのは、兄に勧められたのではなく兄を真似したのだということと、はまったわけではないことだ。こだわりなんてないし、他の飲み物でも全く構わない。ただ、なんとなくいつもブラックコーヒーなだけだ。
「あたしは外でブラックコーヒー飲んだらだめなの？」
「だめじゃあないが、意外だな。一言で言うと、似合わん」
ふうん、と真っ黒で苦い液体を喉に流し込む。確かに、愛らしい飲み物ではない。小学生が飲んでいたら、どうしてと問いただしたくなるかもしれない。
「じゃあ、何が似合うっていうの？」
少々憤慨しながら亜美が言うのに害えたのは兄ではなかった。そもそも、亜美の問いに答えるように発された言葉は、答えではなかった。
誰も気にとめないはず、生活指導の教諭ですら通り過ぎるはずの、階段に腰をおろしている二人を咎めたのは、一人の男子生徒だった。彼は二人の方を見ぬまま、通りざまに、邪魔ですよ、と一言置いていった。てんてん、と階段を下りていくその背中に二人して、反射的にすみませんと応える。
ばつが悪い心持ちで立ち上がり、お尻の挨をはらう。こそこそしながら少々移動し、階段と自販機の見える壁に二人でもたれた。普通に廊下を通るだけなら邪魔にならない場所だ。
「ああいう奴だな」
突然腕を組んで、兄は一人うなずいた。何が？ と亜美は首を傾げる。
「ブラックコーヒーが似合う奴」
なるほどねえ、と自販機の前で止まった先ほどの男子生徒を見やる。眼鏡は銀の細フレーム。その奥の目はややつり目。顔立ち全体が鋭利な雰囲気で、爽やかな短髪が犬のようになめらかに揃っている。スタイリッシュというか、ストイックというか、そんな雰囲気の男子生徒であった。
「あの子、うちのクラスの子だよ」
「あ、そうなの？」
「うん、上谷くん」
その上谷は、先ほどの亜美の真似をするように小銭をいれていく。そこに立った人物はお札を入れるか硬貨を入れるか眺めて悩むか、といった決まったパターンの行動しかしないのだから、多分亜美も誰かの真似をしていたのだろう。ニ人は何気なしに彼の姿を見ていた。そのまま亜美は、再び聞いた。
「わたしには、何が似合うの？」
亜美に、ブラックコーヒーは似合わないらしい。ブラックコーヒーが似合うのは彼のような人らしい。
しかし、似合うものを飲むのかというと、それはまた別の話らしい。
んー、と兄の悩む声とともに、見ていた指先でぴっと自販機に指令を与える音が聞こえた。
机に突っ伏しながらも、目だけはぱっちりと開いていた。まん丸のあどけない瞳で射ているのは、二つ前で一つ右の席においてある缶だった。おそらくスチール缶。およそ自然界に存在しないようなパステルカラー。高校生よりも小学生に良く似合う、つまり亜美に似合いそうなその飲み物が、視線の先にはちょこんと置いてある。
「お、上谷」
亜美は少しだけ視線をずらす。机の上から、そこへ座っている人へ。財布の中身を眺めていたらしい彼は、顔を上げた。三人のクラスメイトが上谷の前に立っていた。男の子には仲良しグループみたいなものがあるようなないようななのでいまいち判然としないが、三人と上谷は仲が悪い関係ではないはずだった。
「お前、かわいいもの飲んでんじゃん」
高校生にもなれば片手で握れる細い缶。ちなみに亜美なら多分両手で持つ。パステルカラーのピンク色をした缶には、赤い字で「いちご・オレ」と書いてある。
「こんなん売ってたっけ？」
「下の自販機に入ってたと思う。真ん中の奴だろ」
「あー、あるある。俺、大体その自販機のお茶買うんだよね」
上谷は黙ったまま取られたいちごオレを取り返した。今まで買っておいてあったことを忘れていたというような雰囲気で、さかさまにして軽く振る。いちごオレって内容成分、沈殿するんだっけ。亜美は考えるが、ブラックコーヒーしか飲まないのでわからない。しかし、缶と同じパステルカラーのピンク色のどろりとしたものが缶のそこに溜まっているのを想像したら少し気持ち悪くなった。
「案外おいしいよな。俺も嫌いじゃないもん」
「でもさ、買うのはさすがに恥ずかしくない？」
「わかる。色がかわいいしな。いちご、ってなんか女の子っぽいし」
「だよな、俺は買えん。上谷すげえな」
馬鹿にしているのかとも思ったが、半分くらいは本気のようだった。上谷はプルタブを空けた。かこん、と、ブラックコーヒーの缶と同じ音が亜美の耳にまで聞こえてきた。そして上谷は三人に話しかけられてから初めて口を開いた。
「死んだ妹が好きだったんだよ」
その口でいちごオレの缶に口をつける。
三人が黙る。上谷の口の端が上を向いているのが見えた。冗談っぽい笑みをしているのか、自嘲っぽい笑みをしているのかは亜美からはわからなかったが、三人の反応からすると、後者のようだった。
「え、それまじ？」
愛らしいいちごオレの缶。亜美は小さな女の子を想像する。二つ縛り、いちごオレと同じ色のＴシャツに、赤いスカート。夕暮れ時の薄暗い室内。何故か親はいない。両手で、彼女にとっては大きないちごオレの缶を握っている。寂しそうな瞳の彼女の頭を、上谷が撫でている。
ぷっ、と上谷が吹き出して、亜美の中の女の子が掻き消えた。
「んなわけねえだろ。冗談だよ」
なんだ、冗談なのか。亜美は肩を落とす。夢があっていいと思ったのに。ブラックな男の子がいちごオレを好むのは、死んだ妹を思ってのこと。素敵なお話になるのに。固まっていた三人のクラスメイトが笑いながら怒りながら上谷の方を叩いた。けらけらと四人して笑っている。
どういう決着なのかはわからないが、三人は上谷と別れて教室の隅のほうに腰掛けた。おそらく三人のうち誰かの席なのだろう。
上谷は一人で、いちごオレを飲んでいる。
「うえたにくーん」
小さな両手でメガホンを作って呼ぶ。いちごオレに口づけをしたまま上谷が振り向く。目が合うか合わないかのうちに、何、との返事が来る。
「上谷くんさ、なんでいちごオレ飲んでるの？」
何度か瞬きをして、上谷はピンクの缶を机の上に置いた。
「さっきの話聞いてた？ 冗談だよ？」
「あ、うん。聞いてたけど、そうじゃなくてさ」
亜美は抱え込むようにして持っていたブラックコーヒーの缶を掲げて、揺らした。中身はあと、半分くらい。真っ黒な缶コーヒー。白い文字のみの飾り気のない缶。
「見た目からしたらさ、あたしら、持ってる缶反対だよね」
上谷は眉根をひそめて自身の机の上に目を落とした。再びこちらを見て、また机の上に目をやった。それから、おかしそうに笑った。その笑顔は案外可愛らしくて、ああ、この辺はいちごオレなのかも、と亜美は一人で納得する。
「なるほどね。言いたいことはわかる」
「さっきお兄ちゃんが言ってたんだよ。あたしはいちごオレで、上谷くんがブラックコーヒーなんだって」
上谷はさらに笑う。亜美はブラックコーヒーの缶を置いて、縁をなぞった。缶の上、口をつけたところに茶色い染みができていた。触れたら、消えた。
あのさ、と上谷は足を組んで、横向きに座りなおした。亜美は首を傾げる。悪戯っぽい笑みは、無邪気ないちごオレなのか、冷静なブラックコーヒーなのか、よくわからなかった。
「それでさ、上谷くん、なんて言ったと思う？」
校門を出たところで鉢合わせたため、亜美と兄は並んで帰路についていた。オレンジ色の世界を、他の生徒たちと群れを成して下校する。空を見上げるようにして兄を仰ぐ亜美の、視線から逃げるようにして兄は空を見上げた。二人して空を見上げているような形になる。
「実は死んだ母親がいつも用意してくれてたんだ、とか」
「ぶー」
空は高く、パステルカラーの水色がどんどん薄くなっていく。代わりに、みかんの汁みたいなオレンジ色がゆっくりと辺りを覆っていく。夜色の毛布はまだ、山の向こうにいるようだった。
「見た目はそうかもしれない、じゃあ中身は？ って聞いたんだ」
「中身？ いちごオレの缶の中にはブラックコーヒーが入っていると思うとでも言いたいのか？」
亜美は兄の言った物質を想像した。いわゆるギャップのある人間ということになるのだろう。中学生みたいな容姿のかわいらしい女の子が、実は稀代の女社長で男社会でもばっさばっさとライバルをなぎ倒し、高級なワインを現金で購入してとても高級な車に乗っているのだろう。だけど背丈が足りない。
うーん、何か違う。頭の中のかわいらしい女社長の想像をかき消す。いちごオレならわかる、愛らしくて、丁度亜美みたいな見た目。しかし、ブラックコーヒーがよくわからなくなった。いつも飲んでいるのに。ブラックコーヒー、どんなだっけ。
あ、上谷くんみたいな人？
そう思うと、ふわりと柔らかく、しかし迷いなくイメージが頭の中で形になった。
亜美みたいな身なりをしている、だって見た目はいちごオレだから。でも甘くてぽやんとしていそうな外見とは裏腹に、自分の意見をしっかり持っていて正しいと思ったらそれを貫く強さがある。馬鹿みたいなノリには一歩引いて、もし彼らがあまりに羽目を外し過ぎそうになったらそっと誘導してあげる。ちょっとしたことでは動じなくて、頼まれたことはきちんとこなして。それから、誰にでも優しいけれども、その優しさをさらりとこなしてみせるから、みんな彼が優しいことに気がつかない。
いちごオレの缶に、ブラックコーヒー。
なるほど。と亜美は今思った。上谷の言ったことが、聞いたときには理解できなかったが、今なんとなく、納得した。
「違うよ。いちごオレの中身はいちごオレだし、ブラックコーヒーの中身はブラックコーヒーだったの」
いつもぱたぱた走り回っていて、色んなことはすぐに忘れてしまって、みんなにお世話をかけて、でもお礼はなるべく欠かさないようにして、なんとなく流れに合わせていて、時々自分より友達付き合いを優先させて、かわいいものについお金を使ってしまう。そんな亜美は、全然ブラックコーヒーじゃない。見た目も中身も、いちごオレだ。
「でも、ブラックコーヒーは実は、いちごオレみたいに甘くなりたかったり、いちごオレだってくーるなブラックコーヒーに憧れてるんだよ、ってことなの」
俺はね、と教室で上谷は言った。無愛想なキャラで通っている気がするんだけど。本当は、みんなに愛されてちやほやされる、いちごオレになりたいんだ。
亜美と兄が並んで歩いている横を、自転車が通り抜けていった。邪魔だよ、という声だけが、自転車から転がり落ちる。
上谷の背中を二人で、再び眺める。なるほどね、と兄が言った。
「ブラックコーヒーは、実はいちごオレに憧れている、ってわけね」
そうだよ、と亜美は笑った。
みんな、違う自分になりたいんだ。見た目がどうとか中身がどうとか好きな飲み物がどうとかじゃなくて。なんとなく、目指している姿があって、夢とか目標とかそういうはっきりとした形じゃないんだけど、何か違うものになりたいんだ。
亜美がそんなことを機器として伝えると、俺が言ったのはそういう意味じゃないけどね、と兄は肩をすくめた。じゃあどういう意味？ と亜美は首を傾げる。視界の端で、道端に自動販売機が見えた。そこにいちごオレが売っているのかどうかはわからなかったが、どんな自動販売機でも、ブラックコーヒーは大抵あるもんだ。
「お前はブラックコーヒー、好きなの？」
「うん、好きだよ」
上谷との話の内容がやっと納得できたせいか、それとも思い出した彼との話がおもしろかったせいか、えへへ、と亜美はにやけながら走り出した。なんとなく高揚した気分で自動販売機まで駆け足。一番好きなメーカーのブラックコーヒーがそこにはある。通学路だから知っていたが、ここで買うのは初めてだった。少し緊張しながら硬貨と引き換えに缶を手にする。
買っている間に追いついた兄の下へぱたぱたと駆け寄って、えへへと亜美は再び笑う。その背中の自動販売機では、いちごオレとブラックコーヒーのボタンに、売り切れランプが点灯していた。
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