彼女はいつも、夢に現れる
バスケットを持ってこう歌う。
勇気、勇気はいかが?
色んな勇気があるよ。
さあ、勇気を買いにおいで。
勇気屋 G 〜gaze〜
さあ、お前はどんな勇気が欲しい?
歌が聞こえて、少女はそちらに耳を傾ける。
ふわふわした空間だ。
一体ここはどこだろう。
向こうの方でフードを被ったおばあさんが歩いている。
おばあさん、と判断したのは声と、腰が曲がっているからだ。
それもあながち間違っていないだろう。
静かにそちらに向かって歩き出す。
綿を踏んで歩いているような気分だった。
おばあさんはこちらに気付いたらしく、ヒッヒッヒと笑った。
お前は、どんな勇気がほしいんだい?
意外としっかりした声でおばあさんが言った。
わたしは、わたしは、
お前にはこの勇気をあげよう
迷っているうちにそういって手を差し出すおばあさん。
わたしも、それを受け取ろうと手を伸ばす。
Gの勇気だよ。
*
コケコッコー
枕元から、ひどく機械的な鶏の声がする。
目覚まし時計から発せられている。
ペチ、と時計のてっぺんのボタンをたたくと、時計は静かになった。
AM7:58。
枕もとの時計は、そう、文字を映し出していた。
あと、4分だ。
少女は体を起こし、北側の、一方通行の道に面した窓際に座る。
彼女の名前は、天井三奈。
部屋の扉の上にかけてある、茶色の時計を見やる。
あと、3分。
いつも、この数分が待ち遠しかった。
躍る心、溢れる笑み。
そういえば、なにか不思議な夢を見た気がする。
そう、確か、白雪姫に出てきそうなおばあさんがいて…。
何か黄色の包みをくれた気がする。
なんだったかな?と首をひねる。
何だか、ちょっと細長くて…
うーん、とうなる、三奈。
「あ」
ふと顔を上げると、時刻は8:02を回り秒針は2を過ぎようとしている。
きっと、もうくる。
そして、彼女の待ち望んでいたそれは、すぐに来た。
「おはよう!」
その、一言が、三奈の体を芯から隅まで駆け巡り、心をどこまでも癒す。
ふふふ、と笑う三奈。
8:02頃、その声はいつも聞こえた。
最初に気づいたのはちょうど1ヶ月前で、ふと目が覚めたときにその声が飛び込んできた。
次の日も同じ頃に目が覚め、また声が聞こえた。
どちらもそれは、8:02のことだった。
それからは、平日はそれを聞くことが日課だった。
その、誰に向けられているかすらわからないあいさつ。
その、誰が発しているかすらわからないあいさつ。
おそらく、少年だと三奈は思っていた。
声のトーンからして、中学3年生くらい、つまり同級生くらい。
「行けば、会えるのかな……」
あえてつむがれなかった、『学校に』という言葉。
不安げに天井を見上げる三奈。
もう、半年ほど学校に行っていない。
義務教育である中学校は、それでも卒業させてくれるらしい。
1年生の思い出なんか、すべて忘れた。
2年生の思い出なんか、すべて捨てた。
3年生の思い出だって、すべて消した。
はは、と自嘲気味に笑う。
笑いながら目に入ったのは、部屋の隅に置かれた一輪挿し。
そしてそこに挿してある、一輪の花。
黄色の、名も知らぬ花
いつ飾ったかすらわからぬのに、その花は、活き活きと咲いていた。
一息つき、三奈は窓をそっと開け、窓枠に座った。
三奈の心の支えとなっている少年は既に見えない。
しかし三奈は彼を見つめるようにして遠くに視線を送っていた。
名も知らぬ、顔も知らぬ、少年。
「さて。今日は何をしようか」
呟いてから、ドアの下に雑誌を見つける。
母が差し込んだのだろう。
それをぬきとり、ぱらぱら、とめくる。
どこぞの芸能人が浮気、どこぞの若い女性が小説でなにやら新人賞を受賞。
そんな、つまらない記事が満載だった。
*
歌が、響く。
通学や通勤で人気のない住宅街に、歌が響く。
どこか、物悲しげな、それでいて癒されるような歌。
決してプロのような歌声ではないけれども、聞いていたいと思えるような歌声。
歌詞はどこか違う国の言葉で、聞いている人には理解できなかった。
歌詞が理解できなくても、歌は聞こえた。
三奈は、歌っていた。
開け放した窓から、風が吹き込む。
外に響くことも気にせず、三奈は歌っていた。
これくらいしかすることはないのだ。
この歌は、クラスメイトがくれたCDに入っている歌だ。
スローテンポで、歌詞は英語。
貸してくれた彼の姿も、声も、三奈は覚えていない。
忘れた。
故意に忘れた。
すべての記憶とともにしまいこんだ。
もう、会うこともないかもしれない。
歌詞の意味も知らず、三奈は歌い続ける。
一番近くでその歌を聞いているのは、一輪挿しに飾られた、小さな黄色い花。
「ねえ、なんか聞こえない?」
「誰か歌ってるんだよ」
「いい歌だねー」
外から、自転車で通り過ぎる女の子たちの声が聞こえる。
そういえば今日は、家庭訪問だったかで、生徒たちは早く帰されるのである。
同級生たちに聞かれるのはあまり好ましくないことであったが、今はまだ歌っていたかった。
響く。
窓を抜け、風に乗り、歌は響く。
あの人の耳に、
あの子の耳に、
彼女の耳に、
そして、彼の耳にも、
歌が、届く。
「天井!」
三奈は、歌うのをやめた。
今、呼ばれたのはわたしだろうか。
この家には自分しかいないし、周りに天井さんの家はないはずだった。
いや、もしかすると、遠くのほうに住む子がここを通っているのかもしれない。
あれ?
うろたえていると、もうひとつ、違うことに気がついた。
あの声は……。
あの声は、朝の、あの声。
深呼吸をして、声のしたほう、北側の窓を開ける。
1人の少年が立っていた。
爽やかな笑顔、片手はポケット、片手は肩にかけたカバンの紐を持っている。
適度の切りそろえられた黒髪、着ている制服は三奈の通う学校のものだった。
目が、合う。
「気に入ってくれてるんだな、今でも!」
照れくさそうに笑って、彼はそう言った。
押さえ込んでいた、しまいこんでいた記憶が、徐々に元に戻ってくる。
一輪挿しの黄色い花が、三奈を見守る。
『なあ、これ絶対お前に合うと思う。』
差し出された1枚のCD。
渋々受け取って聞いてみると、心に染み渡る、自分好みの曲。
気に入ったから、コピーさせてくれ、と言ったら彼は首を振った。
『いいよ、CDあげる。俺はいいからさ』
『天井さ、なんか、あった?』
別に、とだけ答えると、そっか、と言って優しく笑って、しばらく一緒にいてくれた。
それは、まさしく自分の求めていた状況で。
何故わかるんだろう、と思いながら、その優しい空気に涙した。
「床下君……」
毎朝つむがれていた「おはよう」は、床下八尋から、天井三奈へ。
毎日響く歌声は、天井三奈から、床下八尋へ。
「また、明日な」
「……うん!」
黄色い花、黄色い糸水仙の花言葉は「思い出」
水仙は三奈に「思い出」を返す
見つめる勇気。
現実を、過去を、未来を見つめる勇気。
糸水仙は、キラ、と一瞬だけ強い輝きを見せ、弾けて消えた。
一輪挿しは、キラ、と一瞬だけ強い輝きを見せ、弾けて消えた。
gaze、〜を見つめる。
戻る