彼女は、夢に現れる。彼女は、バスケットを抱えて歌う。
『勇気、勇気はいかが? 色んな勇気があるよ。
さあ、勇気を買いにおいで』
勇気屋 I 〜inquire〜
さあ、アンタはどんな勇気が欲しい?
ささやきかけるような歌が聞こえて、少女はそちらに耳を傾けた。少女がいるのは、見知らぬ場所で、どこかぼやけたような空間だった。
一体ここはどこだろう。
離れたところでフードのついた大きなマントを羽織ったおばあさんが歩いていた。先ほどの歌は彼女のものだろう。しわがれた声と、曲がった腰。
他に目標物もなく、おばあさんの引力に惹かれるようにして、そちらに向かって歩き出す。ぼやけた空間での歩みは、綿を踏んでいるような気分だった。
おばあさんはこちらに半身で振り返ると、ヒッヒッヒと笑った。
アンタは、どんな勇気がほしいんだい?
悪い魔女なのか、良い魔女なのか。判然としない雰囲気のおばあさんだった。
勇気? わたしは……
アンタにはこの勇気をあげよう
迷っていると、おばあさんは低くゆっくりとつぶやいて、手をこちらに差し出した。その手の中にあるものを受け取ろうと、少女も手を伸ばす。
Iの勇気だよ。
*
ho−hokekekyo
突然、鶯の鳴き声が響いた。ひどく電子的なその音は、少女、島相楽理衣(しまさがらりい)の携帯電話から発せられていた。
電車の中では、携帯電話が音を立てないようにするのがマナーだ。少しの後、理衣はそのことに気がつくと、あわてて鞄ごと押さえ込んだ。申し訳ない、という表情を作って辺りを見回すが、こちらを咎める視線はなかった。公衆マナーを破ってしまったことには少し心が痛んだが、乗り越してしまわなくてよかった。一息をついて、鳴り終わった携帯電話を取り出す。
一件のメールが入っていた。誰だろう、と心の内でつぶやいてから確認する。
「ケーキ……」
思わず理衣は呟いた。
メールは姉からのものだった。帰りにケーキを買って来い、というのだ。どうせ、名古屋に出かけるのだから、と。
お金はあとでくれる、と言っている。手持ちも寂しいわけではないため金銭的には別に構わないのだが、あとでくれるというお金は、おそらく自分の分だけだ。理衣の分まで奢ってくれることはないだろう。理衣も、ケーキは大好物だ。姉のために姉の分だけ、自分がケーキを買う、なんて真似はできそうになかった。しかし、都会の物価は高い上、体重も気にかかる。だが、食べたい。
ああ、どうしようかな。
理衣は心の中で頭を抱え、苦悶の表情を浮かべる。許されるのであれば座席を思いっきりたたいてみたかった。煮え切らない思いを抱えていたが、ぽっと湧いて出たように記憶が飛び出してきた。
そういえば、なにか不思議な夢を見た気がする。そう、確か、白雪姫に出てきそうなおばあさんがいて…。
何か茶色の包みをくれた気がする。
「まもなく、名古屋、名古屋です」
アナウンスの声にはっと目を覚ます。下りなければ、と鞄の中の内ポケットから切符を取り出した。外は寒いだろう、と手袋も取り出し、妙に目についたのはその下。
茶色のマフラー。
首元にも暖が必要かもしれない。
座席から人々が立ち上がり、理衣も彼らに続いて立ち上がる。見えてきたホームの寒さを思って身を震わせた。
*
「あれー……?」
うなるように、周りを見渡す。早足で行きかう人々の真ん中。さぞかし邪魔だろうと思われる柱のそばに、理衣はぼーっと立っていた。駅ビルの中は暑いな、と思い、手袋をマフラーをはずして鞄の中に突っ込んだ。通路の脇に並ぶ店を見渡しながら、心の中で呟く。
ここは何処だ。
慣れた自分の買い物を済ませて、駅ビルに戻ってきた。そこまでは問題がなかった。そこから電車に乗ることは何の問題もなくできただろう。だが、ケーキ屋さんへ行かねばならなかった。姉の指定したケーキ屋をフロアマップで確認し、一度行ったきりのそこへ向かったのだが、ついにたどり着けなかった。
見知らぬ場所へ向かったはずであるのに、改札に近いよく見知った場所にまで戻ってきていた。
方向音痴なのは、自分でもわかっている。姉はそれをわかっていたのだろうか、と心の中で嘆息した。
人は、理衣の前を後を右を左を、さらに言えば、上も下も通り過ぎていく。
「どうしようかな」
ぼんやりと呟く。きょろきょろと当てもなくあたりを見渡し、はたと、サービスカウンターという看板を見つけた。おお、と心の中で歓声をあげ、人波に紛れて看板の下まで来る。左、矢印の先に、白っぽいカウンターが見えていた。
サービスカウンターで聞けば、ケーキ屋の位置くらい教えてくれるだろう。
ほっと一安心。しかし、理衣はサービスカウンターを通り過ぎた。通り過ぎて、しばらく行ったところで立ち止まる。サービスカウンターに人はおらず、にこやかなお姉さんが座っていた。聞けばいい。
だが、他人に物事を聞くのは、恥ずかしい。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥とは言うが、恥は恥。一時の恥だとしても避けたくなるではないか。それにケーキだ。聞くは一時の恥、聞かぬは姉に怒られる。こうだとしても、どちらも嫌なことには、変わりない。それに、理衣も、ケーキが食べたい。
「あらっ」
早鐘を打ちながら悩んでいると、やさしそうなおばあさんの声が聞こえた。続いて、どさ、と物が落ちる音が聞こえた。振り返ると、若草色の着物を着たおばあさんが転んでいるのと、その隣のサラリーマンが目に入った。ぶつかってしまったらしい。どちらの荷物も、決して小さくはなかった。
「ああ、すみません」
急いでいるのだろうか。腕時計を見やりながら、ぺこりと頭を下げ、そのサラリーマンはその場から逃げるように去っていった。
おばあさんは転んだままで、彼女の荷物が散らばっていた。
理衣の目には、サラリーマンは逃げたようにしか見えなかった。電車の発車時刻に間に合わなさそうだったのかもしれない。だが、せめておばあさんを助け起こすくらいのことはしていくべきではないのだろうか。
理衣は眉根をひそめて雑踏に消えるサラリーマンを見送った。辺りを見ると、通行人も見てみぬふりをしていた。それどころか、くすりと笑う声が目の前を通った女性の口から聞こえた気がした。
ああ、ああ。と呟きながら、おばあさんは荷物をかき集めている。
とっさに、理衣は荷物が散らばっている、その場所へと足を運んだ。しゃがんで、本や手帳、眼鏡ケースなどを拾う。少し恥ずかしい。こういう親切ができるなら、サービスカウンターだって同じようなものじゃないのだろうか。そう思うのだが、理衣の中ではどうもまったく違うようだった。拾ったものを差し出すと、顔を上げたおばあさんと目が合う。
「ああ、ありがとうございます。お急ぎでしたら、いいんですよ」
「いえ、急いでないので」
品のいいおばあさんだな、と思った。かわいらしくて、やさしくて。理想のおばあさんじゃないか、と思って、道行く人々を責める。しかし、その中には、理衣がサービスカウンターへ行くのを躊躇うのと同じように、行動を起こすのが恥ずかしくて通り過ぎた人もいるかもしれないのだった。その人は許してあげたいと、理衣は思った。
理衣が抱えた荷物を、おばあさんはひとつずつ取っていく。そのたびにお礼を言い、おばあさんは紙袋の中に荷物を戻していく。
「本当にありがとうございます」
あたりの荷物が片付くと、おばあさんは改めて頭を下げた。上品で、かわいらしい、理想のおばあさんに頭を下げられだなんて、と理衣は少し鼓動が早くなるのを感じた。
「いえ、ええと、お気をつけて」
ありがとう、と再度言いながら優雅に腰を折り、彼女は背を向けた。理衣もぎこちなく頭を下げる。せわしない人ごみに紛れていく、小さな影をしばらく目で追った。首を伸ばさなければ見えなくなるほどになってから、さて、とサービスカウンターの方を振り返る。聞くか、自力で探すか。後者は難しそうだ。
「お? なんか蹴っちゃった。ま、いっか」
サービスカウンターから遠ざかる理由を探しているのだろうか。女性の声に、機敏に振り返る。
男女の二人組み、背の高い女性が自分の足元を覗き込んでいた。足元に落ちているのは、一本のペンだ。きれいな模様の、ホテルにおいてありそうなペンだった。
あのおばあさんのペンに違いない。荷物をぶちまけたあたりからそう遠くはないが、他のものが落ちていた場所よりは少し離れている。床の色とも似ているため、見逃してしまったのだろう。おばあさんが去ったほうを見る。若草色のきものが、丁度出口を通り過ぎていくのが見えた。
人ごみの間を縫い、二度ぶつかりながらもペンを拾った。表面が石でできているのか、ずいぶんと重たかった。人にぶつからないように注意しながらできる限りの駆け足でおばあさんを追う。
若草色ののんびりとした背中は、まだ見えている。人の行き交う、肌寒い外に出る。
指先と首元に風が入り込んで、思わず身震いする。やはり外に出るは防寒用具が必要だなと思いながらも、今それらを身に着けようとしたら、おばあさんの姿を見失ってしまいそうだった。
何人かを追い越して、若草色の背中は間近に迫っていた。速度を落として、また一人を追い抜く。喉がかわいていた。おばあさん、と声をかけて、ペンを見せればいい。おばあさん、と声をかけて。それは、荷物を拾ってあげることよりも、サービスカウンターにケーキ屋の所在を聞くことに似ていた。声をかけるのを、躊躇ってしまう。
「あ」
走ったせいだろうか、鞄に突っ込んであった茶色のマフラーが落ちた。あわてて立ち止まり、拾って抱えた。ちくちくする、暖かな茶色のマフラーを、ぎゅっと抱きしめた。
呼べばいい、そう、呼べばいい。恥ずかしいことなんかじゃ、ない。
「……おばあさん!」
少し躊躇いながらも声をかけると、ゆっくりと若草色のおばあさんは振り返った。目を丸くしていたが理衣を認めると、あらさっきの、と笑顔を見せた。ペンを差し出し、寒さと周知で頬を上気させ、理衣は聞いた。
「あの、これ、おばあさんのですか?」
「あら、わざわざありがとう。……でもそれはわたしのではないわ」
「え? あ、そうですか。え、っと、すみません、失礼します」
改めて、羞恥が体を駆け巡る。その激流に押されるようにしておばあさんに背を向けた。急いで走ったにもかかわらず、間違いだったなんて。間違えてしまったなんて、とても、恥ずかしい、ばかみたいだ。
このペンは何処に届ければいいというのだ。
「でも、ありがとうね」
背にかかる声に、あわてて振り返る。
にっこりと、上品に笑うおばあさん。やさしげに手を振っていた。
恥ずかしかったけど、でも、他人から見れば恥ずかしいことではないのかもしれない。腕に抱えていたマフラーを抱きしめながらそう思った。
に、と笑いながら手を振りかえし、半ば駆け足で駅ビルへ戻っていく。体がなんだか熱い。マフラーを鞄の中に突っ込んだ。
サービスカウンターの看板の下を通り過ぎる。駆け足をやめ、息を整えながら他の客もいない、そこへ向かった。きれいなお姉さんがにこやかに人通りを見つめている。
「あの、すみません、ケーキ屋さんって」
鞄からはみ出た茶色のマフラーが、雪が溶けるかのように、消えてなくなった。
その下にあった茶色の手袋も、雪と同じように溶け、消えてなくなった。
inquire (物、事を)(人に)たずねる、問う
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