彼女はいつも、夢に現れる。彼女はいつも、バスケットを持ってこう歌う。

『勇気、勇気はいかが? 色んな勇気があるよ。
 さあ、勇気を買いにおいで』



  勇気屋 J 〜jaunt〜



 さあ、お前さんはどんな勇気が欲しい?
 ささやきかけるような歌が聞こえて、少年はそちらに耳を傾けた。少年がいるのは見知らぬ場所で、どこかぼやけたような空間だった。
 一体ここはどこだろう。
 離れたところでフードのついた大きなマントを羽織ったおばあさんが歩いていた。先ほどの歌は彼女のものだろう。しわがれた声と、曲がった腰。
 他に目標物もなく、おばあさんの引力に惹かれるようにして、そちらに向かって歩き出す。ぼやけた空間での歩みは、綿を踏んでいるような気分だった。
 おばあさんはこちらに半身で振り返ると、ヒッヒッヒと笑った。
 お前さんは、どんな勇気がほしいんだい?
 悪い魔女なのか、良い魔女なのか。判然としない雰囲気のおばあさんだった。
 勇気? 俺は……
 お前さんにはこの勇気をあげよう
 迷っていると、おばあさんは低くゆっくりとつぶやいて、手をこちらに差し出した。その手の中にあるものを受け取ろうと、少年も手を伸ばす。
 Jの勇気だよ。


 *


 少年は、目を覚ました。
 穴井羊亮(あないようすけ)はゆっくりと体を起こす。手を伸ばして目覚まし時計を掴むと、時計の鳴る五分ほど前だった。時計より早く起きるなんて珍しい、と目元をこすりながら思い当たる。起きた理由は、そう、夢が終わったからだ。普段なら時計か親に起こされて、夢は途中で途切れてしまう。だが今朝は、夢が終わっていた。だから自然と目を覚ました。
 そう、不思議な夢を見た。しっかりと覚えている。白雪姫に出てきそうなおばあさんがいて……、何か小豆色の包みをくれた。
 何だったっけな、と思いながら小さく伸びをして、ベッドから足を下ろす。冬の空気に同化してひんやり冷たい床。肩を震わせてパーカーを羽織る。
 カーテンを開けると、雨が降っていた。道理で薄暗いわけだ。最近はずっと出かけるのが嫌になる曇り空か雨が続いていた。今日は休日だったが、バイトがある。傘を差して歩いていかなければならないと考えると少し億劫だった。昨日の天気予報を見て用意していた折り畳み傘が机の上に置いてあった。普通の雨傘を持っていくから不必要なそれの隣、茶色のような赤のような鈍い桃色のような物にふと目が留めた。
 小豆色のキャップ。
 それを手に取り、後の調節具で鞄に取り付けてみる。飾りとしては、なかなか羊亮の趣味に合う帽子だ。少し満足して鞄を振ってからそれを椅子の上に置くと、朝食を取るため階下へ向かった。


 *


「穴井君、休憩だって」
「あ、ありがとう」
 お先に、と休憩室に向かう少女。少女は丘屋申香(おかやのぶか)、羊亮と同い年の女の子だ。高校は違うが、バイトの時間はよく一緒になる。大人しい性格だったが仕事は真面目にこなし、それから、快活な笑みで羊亮の心を奪っていた。
 羊亮は彼女の後姿を目で追う。その背が休憩室のドアに消えたのを確認すると、手元の色々なものを慌てたように片付け、急いで後を追った。
 休憩室の扉をノック。どうぞ、と申香の優しげな声が聞こえ、羊亮は一息ついてから部屋に入る。
 対面にある窓の向こうでは、まだ雨が降っていた。
 申香は何をするでもなくぼんやりとしていた。羊亮は彼女の斜向かいに腰掛ける。そのまま、手を伸ばして壁に並んだ鞄の一つを手に取った。椅子においたお尻から、じわりじわりと疲れが落ちていくのが分かる。疲れたときは、甘いものが一番。鞄から引っ張り出した飴を口に放り込む。一息ついてから、なるべく自然な風を装って申香に顔を向ける。
「あの、飴、いる?」
「あ、本当? じゃあ、ひとつ」
 疲れた無表情が、ぱっと控えめな笑顔に変わる。つられるように羊亮も笑って、笑って差し出された申香の手に飴を置いた。
「ありがとう」
 軽く首を傾げるようにして申香は微笑む。羊亮はいや、と小さく呟いて手と首を振った。申香は左右で捻って留められた飴の包みを開くと、丸いオレンジ色の飴玉を口に放り込んだ。右の頬が膨らむ。
「穴井君って、いつも飴持ってるよね」
「ああ、うん。大体いつも持ってるよ」
 たびたび一緒になる休憩で、喋る時と喋らない時がある。どちらかが携帯電話をいじっていることもあるし、どちらもぼんやりしているだけの時もある。喋ると少し緊張して、あまり休憩にならないのだが、喋る時の方がやはり好きだった。
「ねえ、穴井君、ペン余分に持ってない?」
「ボールペン? あるよ」
「ごめん。それ、今日の間貸してもらえない?」
「あ、うん。どうぞ」
 バイト中に、一日に何度あるかというほどではあるが、なにかを書き記すことがある。羊亮も常に持っているし、鞄の中には予備も持っている。予備の方なら貸してしまっても何の支障もない。今日に限って忘れたなんてことはないよな、と少し焦りながらも鞄の内ポケットからボールペンを掴み取る。少し緊張しながら差し出すと、ペンは羊亮の手を離れて申香の手に納まった。
「ありがとう」
 ふわりと笑顔を咲かせて、申香は羊亮に弓矢を放つ。掴まれたような殴られたような、その矢が刺さった羊亮の心臓がどくんどくんと痛いほどに存在を主張する。思わず息を止めて顔を背けた。落ち着け、と自分に言い聞かせる。
「この前、駅に行ったんだけどね」
 ペンを指先でつまんで目を落とし、何度か芯を出し入れする。百円程度で売っている、安いボールペンだ。実用性には長けているが、決して愛らしくない。自分が使っているものも無愛想なボールペンだ。少しかわいいボールペンにすれば、一つ会話のきっかけくらいにはなるのだろうと思いながらも、やはりかわいいペンは恥ずかしかった。
「そこでペン落としちゃったらしくてさ」
 終わったら返すね、と付け足して胸ポケットに挿した。自分のボールペンが、彼女の胸元に飾られているということが少し嬉しかった。お疲れ様の一言しか交わすことのないこともある帰り支度の時間に、話す約束を取り付けられたのも、嬉しかった。
「サービスカウンターとか、には行ったの?」
「え?」
「落し物とかなら、誰か届けてくれてるかもしれない、と思ったんだけど」
 彼女が持っていたのはどんなボールペンだろう、と羊亮は思う。寸胴なボディにかわいらしい絵柄、ノックするところにキャラクタ、ゆらゆらと飾りが揺れる。そんなファンシーなものだろうか。それとも、羊亮と同じ、実用性に長けた安いボールペンだろうか。
「ああ。そっか、サービスカウンターね。今度行ってみようかな、新しいの買うのも勿体無いし」
 彼女のボールペンは、誰かが拾っただろうか。もしそうならそのボールペン、俺にくれないだろうか、なんて。
 申香はぼんやりと窓に目を向けた。羊亮も誘われるようにして窓に目を向けた。外ではずっと雨が降っている。
「雨、嫌だね」
「あ、うん。俺もここんとこ毎日傘持ち歩いてる」
「そう、学校もバイトも、傘持ち歩かなきゃいけないから、来るのが面倒だよね。町に全部大きな屋根があったらいいのになあ」
 両手を大きく広げる申香。ああ、こういう考え方が、かわいいんだよなあ。思わず笑みがこぼれる。確かに、と笑うと、でしょ、と得意げに申香は笑って、伸ばした腕をさらにんーっ伸ばした。ぱたり、と腕を落とすと、ふう、と息をつく。
「遊びに行く気にもなれないしなー。毎日こうじゃ、気が滅入っちゃうよ」
「あのさ」
 彼女の口から、遊びに行く、という言葉が出た瞬間に反射的に口に出していた。申香はこちらに視線をやって首を傾げる。しかし、二の句が継げなかった。
 一緒に遊びに行こう、と言うのはだいぶ恥ずかしくて、とても緊張するものだった。
「なあにー?」
 首を傾げて、申香が聞く。泳がせた視線の先に、自分の鞄があった。小豆色の帽子が、ぶらさがっている。
「あのさ」
 馬鹿みたいにもう一度繰り返す。
「天気が良くなったら」
 ちらと窓の外に目をやった。まだ暗い。だが、雨足は先ほどよりも弱まっている。そろそろ、雨も止むだろう。
「一緒に、出かけない?」

小豆色の帽子がゆっくりと輪郭を失い、そして消えた。
立てかけてあった傘がゆっくりと輪郭を失い、そして、消えた。













jaunt 〈短い〉気晴らし旅行〈をする〉(trip)


  戻る