彼女はいつも、夢に現れる。彼女はいつも、バスケットを持ってこう歌う。

『勇気、勇気はいかが? 色んな勇気があるよ。
 さあ、勇気を買いにおいで』



  勇気屋 K 〜knot〜



 さあ、アンタはどんな勇気が欲しい?
 ささやきかけるような歌が聞こえて、少女はそちらに耳を傾けた。少女がいるのは見知らぬ場所で、どこかぼやけたような空間だった。
 一体ここはどこだろう。
 離れたところでフードのついた大きなマントを羽織ったおばあさんが歩いていた。先ほどの歌は彼女のものだろう。しわがれた声と、曲がった腰。
 他に目標物もなく、おばあさんの引力に惹かれるようにして、そちらに向かって歩き出す。ぼやけた空間での歩みは、綿を踏んでいるような気分だった。
 おばあさんはこちらに半身で振り返ると、ヒッヒッヒと笑った。
 アンタは、どんな勇気がほしいんだい?
 悪い魔女なのか、良い魔女なのか。判然としない雰囲気のおばあさんだった。
 勇気? わたしは……
 アンタにはこの勇気をあげよう
 迷っていると、おばあさんは低くゆっくりとつぶやいて、手をこちらに差し出した。その手の中にあるものを受け取ろうと、少女も手を伸ばす。
 Kの勇気だよ。


 *


 おはよう! おはよう! と叫ぶ目覚まし時計に掌を叩きつける。自分が被害者だったら泣き出してしまいそうなほどの嫌な音がして、だが目覚まし時計は壊れずにその声を止めた。
 堀川園巳(ほりかわ そのみ)はむくりと体を起こした。にらみつけた時計は、丁度高校の始業時間と同じだった。あー、と眠気にうめきながら前髪をかき上げる。
 急ぐ必要はなかった。学校は冬休みに入っており、ここのところは大掃除に明け暮れる日々である。休暇とあって自堕落な生活を送っている同級生も数多い。しかし園巳は、他人はともかく、自分が昼まで寝ていることを許せなかった。だからこうして、今日も朝のうちに起きている。
 ベッドの横に置いたままのスリッパをつっかけながら、そういえば、と思い出す。
 そういえば、不思議な夢を見た。はっきりと覚えている、白雪姫に出てきそうなおばあさんが出てきた夢。確か、藤色の包みをくれた。
 なんだっけ、と首を傾げた視界の端に机が見えた。その上に乗っているものがふっと思い出されて、軽く眩暈を感じる。宛先も差出人も自分のものではない、預かった手紙である。預かったのは終業式の前日だったから、もう手元に置いてから一週間近く経っている。
 考えるのも嫌になって、ため息をつきながらうつむく。埃一つ無い床の上に、藤色の手鏡が落ちていた。いつの間に落としたんだろう。眉をしかめて拾い、ローテーブルの上においておく。
 カーテンを開けると、隣家が見えた。頭の中に、机の上の手紙と、机の中の手紙がよぎる。悩むように歯の裏を舐めた。
 そろそろ渡さないと、さすがにまずいよなあ。
 どっちを? という自分自身の問いは無視した。


 *


 ガタンゴトン、と揺れる電車。目の前では埋沢辰江(まいさわ たつえ)が両手に紙袋を抱えて嬉々とした笑みを浮かべていた。それまで雑誌で見たかわいい服の話をしていたはずの彼女がふと、黙った。
 視線を少しだけ上に向け唇を舐める彼女を見て、こういうところが魅力的なんだろうと感心する。彼女の言おうとしていることが何なのか分かって、今日の買い物の楽しかった成分が全て吹き飛んでしまったような気がした。
「ねえ、そのみ」
「なに?」
 甘えたような声。いい匂いが今にも鼻腔に飛び込んできそうな喋り方に、普段なら苛立たない。彼女のそういう仕草は、鼻につくような傲慢な素振りの一切ない、天然素材の愛らしい女の子のものだからだ。しかし話の内容を察してしまえば、苛立ちは自然と心の中に滲んだ。だがその苛立ちは、聞き返した声には出さずにいられただろう。
「渡してくれた?」
 泳ぐ視線は園巳の元へは来ない。そのことに感謝しながらも、じゃあ、今彼女が見ている姿は一体誰か、と想像すると、嫉妬が燃え出しそうだった。
 いつのまにか握り締めていた拳を、ゆっくりと解く。園巳が窓の外に視線をやるのと同じタイミングで、辰江がこちらを向いた。
「ごっめん。なかなかタイミングなくてさ」
 眉尻を下げて困ったように笑う。半ばやけになって作った苦笑いをどう受け取ったのかは知らないが、辰江はそっか、と呟いた。残念そうな、その一方で安心したような。そして、少しだけ園巳を責めているように聞こえたのは、園巳の被害妄想だったろうか。
 辰江の書いた手紙は、実は今も持っている。家に放り出しておくのが怖かったのだ。ずっと見張っていないと、手紙が勝手に何かをしでかしてしまうのではないかという得体の知れない不安があった。ご飯に行っている間もお風呂に入っている間も落ち着かず、だがしかし、部屋に戻って手元にあるのを確認して得られるのは安堵ではなく、底知れない絶望だった。
「本当? そっか、じゃまた、渡せる時があったらお願い」
 少しだけ残念そうで、少しだけ安心したような。きらきらの金平糖で出来ているようなはにかみ。
 ゆうまくん。
 彼女が小さく呟いたような気がして、一瞬だけ、目の前が見えなくなった。
 穴井悠馬様へ、と書かれた手紙が、園巳の鞄の中には二つ入っている。
 内容は恐らくほとんど同じで、乙女が胸中を綴ったただの恋文である。受取人も同じその手紙の、異なる点は差出人である。辰江と、園巳。
 辰江は、園巳に自分の想いを語り、預けた。だから園巳は辰江が悠馬を慕っていることは知っている。だが、それ以外のことも、園巳は知っていた。園巳自身も悠馬が好きだということ。それから、その悠馬は辰江が好きだということ。辰江の手紙を渡せば二人が幸せになるということ。園巳の手紙を渡せば二人が困惑するということ。どちらの手紙を渡しても、園巳自身は幸せにはなれないということ。
「幼なじみ、いいなあ」
 実際、彼女はそう思っているのだろう。だから園巳には、そんなことないよ、と笑顔で返すこともできなかった。伝わらないことを承知で口にするには、心も体も疲弊しきっていた。
 幼なじみは幼なじみでしかない。恋をすることのできる赤の他人の方がどれだけ羨ましいか。
 あんたのほうがいいじゃない、と叫んでしまいそうになるのをこらえて拳を握り締める。辰江のつぶやきは、園巳の反応を期待していたわけではないようで、続く言葉はなかった。
 車窓から見える冬の町並みが、そろそろ歩き慣れた景色になってきた。買い物は楽しかったし辰江のことも好きだが、園巳は早く家に帰りたくて仕方がなかった。


  *


 家の近くの景色が一番嫌いだ、と園巳は思う。
 外出することは嫌いでないが、園巳はあまり積極的に行動しない。その理由の一つは、家の近くの景色が嫌いであるためだ。自分の家から半径何百メートルの範囲の景色が、園巳は嫌いなのであった。遠くまで出かける、あるいは近場に散歩へ行く、それは構わない。だが帰路について自分の家の周りの、あまりに見慣れすぎた景色の中に戻ってくるのが、園巳には苦痛であった。見飽きただけなのか、自宅が嫌いなのか、理由は判然としないが、いつも園巳の帰り道は憂鬱である。今日は特に、肩にかかった鞄が重い。
「買い物帰り?」
 ため息の間から聞こえてきた声に驚いて飛び上がる。マウンテンバイクを引いて曲がり角から姿を現したのは、地べたを這うような心持ちの園巳に優しく手を差し出してくれるような存在だった。笑顔は自然と沸いて出てきて、重かった足取りが急に軽くなる。
「うん、そう。悠馬は?」
 冬なのに色黒、コートの上からでも細い割に逞しい体をしているのが分かる、精悍な顔つきに爽やかな短髪、と見るからにスポーツマンという風貌の彼は、園巳の家の隣に住む、穴井悠馬である。生まれた頃からの園巳の友人で、中学生の園巳の想い人で、今は園巳と辰江の想い人である。
「いや、遊び帰り。でも鍵忘れたからちょっと悩んでた」
「あんたよく忘れるよね」
「まーね。父さんと一緒で学習能力がないらしい」
 小馬鹿にした風に園巳が言うと、悠馬は自慢げに胸をそらした。昔よりも随分と逞しくなった胸を軽く叩く。一瞬だけ触れただけなのに、手には彼の体温が残った。
「ま、おばさん帰ってくるまでは、家にいなよ」
「おー、ありがと、助かる」
 悠馬のマウンテンバイクがからからと音を立てて、園巳と同じスピードで進みだす。不意に、悠馬が園巳の手にあった紙袋と鞄をひっぱった。問い返すもなく盗られたと思うと、あっという間に自分の肩にかけた。いいよ、と慌てて手を伸ばす園巳だったが、いいよ、と同じ言葉を繰り返す悠馬は園巳の荷物を返さなかった。ありがとうの言葉は喉元まで来て、口に出たときには、もう、という呆れたような声に変わっていた。
 嫌いなはずの帰路だったが、園巳は笑顔を絶やすことなく自宅に戻った。

 園巳の自宅にも誰もいなかった。いまさら二人きりであることに緊張はしない。だが、嬉しいのは事実だった。勝手知ったる人の家と悠馬が用意したコーヒーで、少しだけ猫を被ったように、かわいこぶりっ子気味に身を暖める。
 悠馬が息を吹きかけているコーヒーよりも、園巳のコーヒーの方が白っぽい。牛乳の量が多いのだ。何も言わずとも悠馬は、園巳のコーヒーには多めに牛乳をいれてくれる。その味は、母が作るよりも自分で作るよりも一番心地よい甘さだった。しかし言ったことはない。悠馬の作るコーヒーが一番おいしいと。些細なお礼の使い方を覚えても、一緒に覚えた相手には伝えたことがなかった。口にするのが、どうにも気恥ずかしかったのだ。口にされるのも気恥ずかしかった。
 だから今までずっと、言ったことはなかった。
 思っていたよりも、言葉はよどみなく喉をすり抜けていった。
「コーヒー、ありがとね」
 ん? と悠馬は訝しげに視線を園巳に投げる。その、ずっと同じものを見てきた瞳から逃げるように視線をそらし、だが喉元まで出てきた次の言葉からは逃げなかった。
「自分で入れるより、おいしいよ」
 くつろいだ視線、精悍な顔立ち、きょとんとした表情がこちらを射ていることが、手に取るようにわかった。自分の視線をコーヒーと混ぜ合わせていても、呼吸するより容易くそんなことはわかった。それだけ長く、一緒にいた。
 園巳にコーヒーをいれてくれるのはこれで最後かもしれない。そんな、漠然とした予感があった。予感というよりも、決意だったろうか。これで、最後にしよう。
 今まで言いたくても恥ずかしくて言えなかった。だがもうこの先、お礼を言う場面はない。これからも、悠馬はコーヒーをいれてくれようとするかもしれない。だがもし二人が付き合うならもういれてもらうつもりはない。そんな特別ルールみたいなのは園巳には昼まで寝ているのと同じくらい許せなかった。
 何言ってんだよ、と笑い飛ばすか、気持ち悪い、とおどけるか。反応は予想外のところからやってきた。感謝を素直に伝えられたご褒美だろうか。最後のプレゼントだろうか。
 悠馬は素直に微笑んだ。
「へえ、そうなんだ」
 夕暮れが近づいて少しずつ影が降り始めた部屋の中で、悠馬は優しく、心地よさそうに笑っていた。甘いコーヒーの香りに、二人で一緒に包まれている。
 ああ、やっぱり、好きだな。
「ちょっと待ってて」
 気を抜いたら涙が出そうだった。足の指先から手の指先まで全身が、しびれたみたいにじんじんしている。目を瞑っても歩ける家の中を駆けて、自室へ飛び込んだ。息が荒いのは急いで階段を昇ったせいだけではなさそうだった。無理矢理深呼吸をして、帰って部屋に放り込んだ鞄にひざまずく。
 手が震えた。ジッパーを開ける。邪魔な財布を取り出す。小さなクリアファイルが目に入る。クリアファイルの中には手紙が入っている。二つの手紙が入っている。桃色のそれとベージュのそれ。手を伸ばす。
 藤色の手鏡が、鞄の中からこちらを見ていた。映りこんだ自分の顔が一体、どんな感情を表した表情なのかわからなかった。
 ベージュの手紙を、少しでも力を入れたら壊れてしまうのではないかというくらいに、丁寧に取り出す。しわのない、優しい色の手紙。宛名も差出人も確認せずに、園巳は部屋を出た。何が書かれているのかなんていうのはもう、目を瞑らなくとも、思い出せる。
 好きな人の名前を書くときの、一人で感じる胸の高鳴り。誰もいないのに後ろを気にして、荒くなる吐息を深呼吸で抑えて、どきどきと脈打つ鼓動でぶれてしまわないように、大切に、大切に、好きな人の名前を、そこに記す。
 ベージュの手紙を書いたのは園巳ではない。だが、書きながら辰江が感じた感情が、同じであってほしかった。
「今、母さんの車見えた」
 急いで戻ると、悠馬はそう言って玄関へ向かうところだった。待っててと言っても、ちっとも待ってくれない。そういう彼のことが、園巳は大好きだったのだ。肩で息をして、一歩ずつ悠馬に近づく。一歩進むたびに心の中で涙が量を増す。歩みは溢れるまでのカウントダウンだった。決壊まであと一歩。何怖い顔してんだよ、と笑う悠馬に、手紙を差し出した。
 今の顔は、藤色の鏡に映っていた顔と、同じだろうか?
 首を傾げて手紙を受け取った悠馬は、宛名に目を落として口をぽかんと開けた。
「家で、開けてよね」
 どういうこと、と問うように彼が顔を上げるのを許さない。最後の一歩を踏み出す。全体重で彼の体を押しやった。慌てる声を無視して玄関の外へ押しやる。困惑する悠馬に、園巳は精一杯の笑顔で手を振った。
 未練なんてない。突き放すように玄関を急いで閉める。もうダムは崩壊した。そのことを、悠馬に知ってほしくなかった。かちゃんと扉が音を立てて外界を拒絶する直前に、目が合った。声が震えた。
「おしあわせに」
「ありがとう」

 藤色の手鏡は湯気に溶けるように消えた。
 園巳の手紙も湯気に溶けるように消えた。













knot 「名詞」・〈特に夫婦の〉きずな、縁
     「動詞」・(人が)〈ひも・ロープなどを〉を結ぶ


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